宮国優子の「思えば宮古」 第拾四號

あんちーかんちー編集室

2010年03月23日 09:00


常夏の島のイメージがある宮古島にも、ささやかに四季がある。長い長い夏の始まりを予感させる、短い春という季節は、島にある大きな変化をもたらします。さいが族酋長・宮国優子がふと振り返った「短き島の春」と、あの男、エドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイムが時空を超えてクロッシングする、あららがま パラダイス コラム 『思えば宮古』 第拾四號。「あなたはそこにいますか・・・」

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『博愛は美談 ~日記の中のエドゥアルド~』 巻の六
ふと、考えました。「宮古の7月ってどんな雰囲気だったろう?」と。

エドが宮古島に流れ着いたのは、7月11日。風の感じや湿度や日射しの強さなどなど、改めて考えてみました。なぜかというと、台風が去った後の清浄な島の様子は、今、3月の終わり頃の宮古にとても似ている気がするからです。春めいているような、でも夏の香りが感じられる、今、この瞬間です。

この時期は海の色がいっそう美しい日もありますが、時折、灰色の冬がぶり返します。一日一日が季節がミルフィーユ状に重なって夏を迎えていく・・・そんな微妙な季節なのです。「宮古は春を飛び越え、一瞬にして夏になる」という人もいますが、実はそうではない、と思うのです。ほんの少しだけ春が来るのです。島の人が物思いにふけることができる唯一の空気感ではないかと思います。頬をなでる風は台風のあとの清々しさを含んで、少しだけ非日常です。その季節の移り変わりの短さがあっけらかんとした楽天的な島民性を形作るのではないかとすら思ってしまいます。
春の訪れは短く、私はその儚さが島を訪れた時に感じる夢うつつの時間と共通しているなぁと感じるのです。感受性が普段より鋭敏で少し感傷的という状態でしょうか。それは島にとって、別れの季節だからかもしれません。宮古の多くの子どもたちは、高校を卒業すると否応無しに島を後にします。勿論、その前に進学や就職のために中学卒業と同時に島を離れる子どもたちも一割ほどでしょうが、います(島を早くに離れれば離れるほど、宮古に戻ってくる率は残念ながら低くなります)。
その時の別れは15歳を過ぎても島に残る大部分の子どもたちにとっては余震のようなもので、実際の島離れは今、この季節、この空気感のなかで起こるのです。中学卒業後に島を離れた少数の友人たちを追いかけるように、ほとんどの18歳が島を離れていきます。そして、その寂しさが島を覆います。彼らの微妙な心持ちが島の空気に振動して拡散していくように思えるのです。それはこの季節の夕闇と重なります。そして同時にわき起こる期待感はこの季節の夜明けに似ています。夜明け前の空気は清らかで少し肌寒いけれども、上がってくる朝日の暖かさはもう夏のような勢いなのです。

特に本土や海外へ旅立って行く子どもたちにとっては、新しい土地は相当な距離感です。私たちの時代は円高だったためか、ミーハーだったためか海外進学組が5パーセント程度いました。東京や大阪、福岡など地方都市に向かうものがほとんどでした。何か嫌な事があっても、電車に乗ってすぐに帰ってしまえる近さではありません。子どもたちは、本土へ渡ってから寒さに驚き、初めて一人で季節をもう一度感じます。今度は一人きりで冬と春を追体験するのですから、やっと本当の心の自立が始まるのでしょう。一人での生活が始まってしまえば、嫌でも島の家族やまわりの人々に感謝する場面が何度も訪れるでしょうから。「一人で生きて来たのではなかった」とつぶやいた友人がいましたが、島にいると呼吸をするのと同じ質感で、まわりの人は存在して関わってくれたのだということを意味しているのでしょう。
ある意味、島は丸ごと温室状態でもあるのだとも言えます。箱入りならぬ島入り娘であり、島入り息子なのです。箱と認識してないので、かなりのでかさです。

そして、この島を大量に離れる世代が激増したのはこの4~50年でしょう。戦後世代はまだ占領下で遠くといってもなかなか内地に出る数も限られていたように思います。その前の世代で、島や地域で一生を終える世代から見れば、今生の別れに感じて抵抗するのもいたしかたない、と思うのです。
「島から出さない」と、真顔で言う年配者もいます。そんなに頭のかたくないオバァたちも、「今は交通手段が発達いるから会おうと思えばいつでも会える」と頭では思っても、引き裂かれるような気持ちになるのでしょう。愛するものに何かあってもすぐに手を差し伸べられるところにいない、という淋しさがあるからではないかと思います。
島を後にする人も、その愛情に報いる事ができないかもしれないと思うと、一抹の淋しさがわき上がってくるのだと思います。これが時代の流れといえばそうなのですが、今も昔も、人が望むものは大きく変わっていない気がします。「心を傾ける相手のそばにいつもいたい」。それが人間の究極の望みではないかと思います。エドが宮古を楽しみながらも祖国に帰りたかった理由、帰ろうと奔走した理由はそこにあるのでしょう。

そして、エドが島を離れる時「二度とこの地を踏む事はないだろう」という万感迫る気持ちが、政府や皇帝に嘆願し石碑を建立させるまでにいたったのでしょう。1976年4月30日付けの北ドイツ新聞の報告として掲載されています。双方にとって永遠の別れだったのでしょう。

「帰国の途につくことができるまでの34日間にわたる滞在中、乗組員らは島民たちから暖かく丁重な扱いを受けた。その称賛すべき行為を永遠に人々の記憶に留めるため、神の恩寵によりドイツ国皇帝およびプロシア王の地位にあるウィルヘルムはこの記念碑の設置を命令するものである」

「永遠に人々の記憶に留めるため」の一文が胸を打ちます。この文章は宮古にある石碑に刻まれているそうです。宮古に住んでいた頃、私はその気持ちをちゃんと受け取ってきただろうか、とかえりみます。
宮古にいた頃はロベルトソン号の話についてほんの少しの関心しかなかったからです。エドが石碑を建設するために国や皇帝に働きかけた結果、実際に石碑は建立され、現在も宮古に残っているのは素晴らしいと思います。
国や皇帝が日本と同盟を結ぶための計算された予定調和的な行動だったとしても、結果パワーゲームとしての戦争が起こり、戦争に巻き込まれた人がいたとしても、今の私たちはそのエドの気持だけは受け取れるように石碑が立っているような気がします。

前置きがすごく長くなってしまいました。私自身、書きながら気付く事も多々です。そして、島を離れたことで改めて島の価値観に触れるのです。きっと故郷は誰にとってもそのようなものであるかもしれません。同時に脳裏に残る原体験は静かに思考回路に浸透していて、人は年齢を重ねようがそこからは逃れられないものかもしれません。

この季節は、宮古の人にとっては、大きな分かれ道。たぶん死ぬまで二度と会えない同級生が出てくるのです。自分が存在するところに当たり前に存在した友人たちが、ある日をさかいに消滅するようなものです。物理的に目の前から島とともにいなくなるのですから。
宮古では言葉を交わさない同級生というものが存在しにくいものです。18年間のうち、どの同級生とも一度くらいは話す事があるからです。話さなくても友人の友人というように、ワンクッションでつながることができます。信頼している人の信頼している相手は信頼できる、というアレです。そして相手と一度話してしまえば、それはもう親しい友人です。袖触り合うもなんとかです。原体験にさほど変わりがないので、すぐに気持ちを共有する事がしやすいとも思います。
また、知りたくなくても自然に家族構成なども知り得てしまう。その島の小ささが他人との境界線を曖昧にします。それが個人戦ではなく、団体戦に強い宮古の子ども達を自然に作ってくのでしょう。例えば、県代表で出場するサッカーやバレーが異常に強いのはそこにあるのだと思います。

全国レベルの大会では、宮古の子どもたちの体格は明らかに見劣りします。バレーにおいてはチームの平均身長が10センチ近く変わる事もあります。
ですが、戦いは互角です。宮古のなかでも特に小さい学校はその現象が顕著です。ツーカー以上のテレパシーじゃないか、と思う息の合い方を見せてくれます。まるで大きな一人の人間を見ているような気がします。チーム全体に特有の一体感があるのです。
島の大きさは、こんなところにも影響するように思うのです。共通のムードやカラーを持つことが自然にできます。皆、自然に役割は認識しますが、それは上下関係ではないし、個を抑える方向ではありません。まるでスコールのような雨が上がった空にかかる虹のようなものです。違う個性が調和を生み出すのです。誰一人として同じ色でなくても良いのです。
その言葉にならない雰囲気や価値観を18年間培ってこそ、島の外に出てみると自分の個性を感じるのだと思います。自分の色をより際立たせるために島を後にする、という気持ちであれば向かうところ敵なしかもしれません。

「両親も祖父母も親戚も宮古」という多くの子どもたちが、初めて大きな別れを体験する季節。子どもたちは、風も日射しも空気感も匂いも忘れる事はないでしょう。五感で捉える宮古、言葉にできない宮古があるとすれば、その空気感に似ている7月はエドにとって、どんなものだったのでしょうか?。

いつもエドの気持ちに寄り添いながら書こうと思っているのですが、なぜか宮古に対しての自分自身の深い気持ちを掘り起こしているような気がします。私が知る短い期間での宮古人の心の動きが、どこまで歴史から連なっているのか、理解したいと思うのです。
そして、あの島だけのドメスティックルールや価値観、ユネスコに言語消滅危機度で「危険」と指定された宮古の言葉に知らず知らずにつながっているような気がしてくるのです。同時に自分の原体験や宮古の歴史に脳内アクセスしているような不思議な気分です。「多様な言葉」がなくなることは、多様な文化も消えていくこと。これだけ標準化された先進国社会では、言葉が大きく変わる事もないと思うので、こうして消えていく宮古方言や宮古の価値観をひっそりと眺め思索したいと思うのです。そこで立ち止まって気付くのは、人の心ってあんまり変わっていないのではないか、と思うのです。

いつも宮古の言葉を標準語で巧く表現できないことがもどかしいのですが、それは実は言葉に背景にある文化やその雰囲気まで説明しなきゃいけないからだと思うのです。「わからなかったらいいや」というのはあきらめるのはとても簡単ですが、気になってしょうがないので、ついつい突っ込みたくなるのです。

他人や異文化の人を理解したいと思うとき、人は改めて自分のことを掘り返さざるえないのかもしれません。当たり前のことなのですが、私はエドという指南役がいることで、やっと体感してるのかも。40にして惑わず、の予定が・・・あぁ 。脳みそがまだ止まっています。サンキュー、エド。まじで。

こうしてエドへの愛がどんどん深まっていくのでした。
どこまで行ってしまうんだろう、私・・・。んびゃーいん。
嗚呼、今回はあなたの立派なふるまいや観察眼がご披露できなくてすいません(ってことにしとおこう)。

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【参考書籍】
「ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」
財団法人博愛国際交流センター 編集・発行 平成7年初版
※残念ながら入手困難な稀覯本ですが、図書館などで読むことが出来ます。

【関連記事】 かんちーな特集
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(文+写真:宮国優子 編集:モリヤダイスケ)
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