2009年03月20日
「博愛美談」ドイツ商船ロベルトソン号遭難事件
好評掲載中の『宮国優子の思えば宮古』のコラムの中に、「博愛美談」「ロベルトソン号」「ドイツ村」といったキーワードがちりばめられていますが、より「思えば宮古」を楽しんでいただけるように、今回は博愛の物語「ドイツ商船遭難事件」について、おさらいがてら物語の流れを紹介してみたいと思います。
時は1873年(明治6年)7月。この頃の沖縄は明治政府によって琉球王朝が強制廃止され、律令国として琉球藩が設置されたばかり(琉球藩設置1872年。全国的には1871年に廃藩置県が行われている)、アジアでも清(中国)が西洋の烈強に翻弄されていた近代の黎明期。
ドイツのハンブルグからやって来た商船、「R.J.ロベルトソン号」は、貿易品である茶を福建省から積み込んで、オーストラリアのアデレードに向けて出港します。
ところがロベルトソン号は激しい暴風(台風)にあい、マストは折れ、救命ボートも流され、船員も亡くなるなど、いつ沈没してもおかしくない非常に危険な状態で、宮古島の南岸へと流れてゆき、宮国沖のリーフ(現在のうえのドイツ文化村の沖合)で座礁します。
まず、ロベルトソン号の座礁を目撃したイギリスの軍艦カーリュー号が、ボートを出して救出を企てるも高波のため断念(先島近海は琉球・中国間の国際航路であった)。続いて、島の住人が座礁した外国船を発見し、島から小舟を漕いで救出を試みるも、暴風明けの波浪が砕ける、夜のリーフに接近を阻まれてしまう。この様子を見ていたロベルトソン号の乗組員は激しく落胆するが、島民は海岸でかがり火を焚き、難破船の乗組員を励まし続けます。
翌朝。未だ打ち寄せる高波を突いて小舟2艘を出し、船に残っていた救命ボート1艘とともに、生存者8名(ドイツ人6名、うち女性1名。中国人船員2名)を無事に救出する。その後、ロベルトソン号は激しい波に洗われて破壊され、再生不能となり放棄されました。一部の積荷や、身の回りの品、保存食などを放棄前に回収した(船倉から流れ出して海岸に打ち寄せられた、積荷の茶箱を中身を知らない住民が親身になって拾い集めて来るも、濡れて商品にならない物などいらないと、なじる一幕が船長は日記に書かれていた)。
救出はしたものの相手は赤髪青瞳の外国人なので、言葉が通じずコミュニケーションがうまく出来ない状況でもあったようです(過去に来島した外国船との交流から、少し英語を話せる者もいた)。それでも遭難者たちを手厚く保護し、宮国の村番所(ぶんみゃー:現在の宮国公民館)を宿舎に提供し、米や鶏肉を与えました。この頃の宮古は過酷な人頭税がまかり通っていた時代なのですから、貢物ではないものの8名もの人間に食事を提供するのは、それなりに苦労もあったのではないでしょうか?
また、この遭難事件の2年前に宮古の船が嵐で台湾へ漂着し、原住民に乗組員54名が虐殺される事件(12名が生還)が起こっており、外国人を初めて見るに島民は恐怖を覚えたという話もありました。尚、この台湾の事件を理由に、明治政府は台湾出兵を行い、いわゆる琉球処分(琉球王朝を解体し版図に併呑する)を押し進め、沖縄県の成立と日清戦争へと歴史は続きます。
しばらくして彼らは宮古馬に乗って、宮国から野原(ぬばる)へと移送され、新たな宿舎をあてがわれます(一部には平良へ移ったと記述されている記録もある)。体力も回復し気力も癒えた彼らは、ロベルトソン号から持ち出した銃で、余暇を兼ねて島内の森で鳩を狩ったりするなど、意外にも自由な島の生活を謳歌していたようです。
しかし、いつまでも外国人を島に留まらせ訳にも行かないと、島の役人は中国へ送る船を出してくれるよう首里まで使いを向かわせますが、いつまで待ってもその船はやってこなかったため、たまたま宮古島へ来航していた官船を、王朝の許可なしに島の役人の独断で彼らに与え、難波救出から34日ぶりに島をあとにするのでした。
中国を経由してドイツへと帰国した彼らの逸話を、ロベルトソン号船長のエドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイムが、「ドイツ商船 R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」と題して新聞に発表。それを読んだ時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、宮古島の人々の博愛精神に感動し、1876年に軍艦チクローブ号を日本へ派遣します。
チクローブ号は横浜に入港し、明治政府と宮古島への記念碑を建てる相談をした後、那覇へと赴き琉球藩王を表敬訪問します。もしかしたらこのあたりで、宮古島の役人が勝手に官船を譲り渡した経緯などが不問されたのかも知れません。
そしてドイツ皇帝の誕生日でもある3月22日に、宮古島の中心港、漲水港(平良港)を見渡せる斜面に、博愛精神を賞賛する記念碑が建立されました(現在、博愛記念碑が建つ場所は住宅に囲まれてしまい、海が遠くなってしまっています)。
時は流れて1933年(昭和8年)。文部省から全国の小学校に、埋もれているイイ話を教科書に掲載する企画募集があり、「博愛」と題したこの逸話が一等に選ばれます。1937年(昭和12年)に小学校の修身教科書に掲載され(戦後の道徳。時代背景から皇民化政策の一環と見る向きもあり、同様に久松五勇士も同様に教科書に掲載された)、美談として全国に広く知られることとなります。
また、記念碑の建立から60年目(1936年)にあたり、宮古出身で大阪に在住していた下地玄信が、「独逸商船遭難之地」の碑を宮国(現在はドイツ村内にある)に建てました。この下地玄信(1894~1984年 平良字東仲宗根生まれ)は、県立一中(現・県立首里高校)から東亜同文書院大学(上海に開校された日本人のための大学で、終戦とともに閉校。位置づけとしての後身は愛知大学)を卒業し、公認会計士として国内外で活躍した方で、1975年に育英・奨学を目的とした下地玄信育英会を設立し材育成に貢献しました。
現在、カママ嶺公園に建つ「博愛」の碑は、この下地玄信が他界した1984年に建立されており、碑文に記された「博愛」の文字は、東亜同文書院大学を開校した東亜同文会の会長を務めていた近衛篤麿の長男、近衛文麿の書というリンクがある。
1987年。バブル期のテーマパークブームも手伝って、上野村(現・宮古島市)が宮国のンナト浜に、ドイツ文化村の建築構想を策定し、1996年には「うえのドイツ文化村」がグランドオープン。中心施設のマルクスブルグ城は、ライン川沿いに現存する世界遺産にも登録されている城を再現したもの。この城はドイツを統一したプロイセン王国の支配下にあり、初代ドイツ皇帝となったプロイセンの王は、博愛の碑を贈ったヴィルヘルム1世でした。
余談ついでに、九州沖縄サミットが開催された2000年には、当時のドイツ首相のゲアハルト・シュレーダーがドイツ村を親善訪問しました(これをさらに記念して、空港からドイツ村までの道を「シュレーダー通り」と命名)。
そして2009年。さいが族酋長の宮国優子が「博愛美談・ドイツ商船ロベルトソン号遭難事件」を題材に、あららがまパラダイスコラム「思えば宮古」の執筆を開始しました。
宮国優子の「思えば宮古」
『博愛は美談 ~宮古とドイツ・未知との遭遇~』 巻の壱
『博愛は美談 ~宮古とドイツ・未知との遭遇~』 巻の弐
激動の近代黎明期の沖縄、宮古島の世相はあまり知られておらず、歴史の断片の中から見えてくる姿は、とても興味深いものがあります。
また、宮古近海では知られているだけでもロベルトソン号のほかにも、1797年(寛政9年)にイギリス海軍の探検船プロヴィデンス号が、池間島北方の八重干瀬で座礁・沈没。1855年(安政5年)に多良間島で岩手県宮古市の商船が遭難(その後多良間村と宮古市は姉妹都市に)の他、韓国やオランダなどの外国船が座礁したと江戸後期(概ね18世紀後半の産業革命以降)頃から記録が残されています。
ある意味、知られざる国際交流が近代の宮古では行われていたのではないかと、想像をたくましくしたくなる史実ではないでしょうか。
[当時の主な出来事]
1771年(明和8年) 明和の大津波
1871年(明治4年) 宮古島の年貢船が台湾に漂着(3人溺死、54人は殺害され12人が生還)
1872年(明治5年) 琉球藩となる(全国で廃藩置県は1871年)
1873年(明治6年) ドイツ商船ロベルトソン号、宮国沖で座礁。乗組員8人を救助
1876年(明治9年) ドイツ皇帝、軍艦を派遣し、博愛記念碑を建立
1879年(明治12年) 廃藩置県が公告、沖縄県となる
1887年(明治20年) 人頭税廃止運動起こる
1905年(明治38年) 久松五勇士が「バルチック艦隊、見ゆ」を通報
[R.J.ロベルトソン号]
船種:木造縦帆船(2本マスト)
船用途:商業貨物船
船籍港:ドイツ・ハンブルグ
長さ:27.70メートル
幅:7.50メートル
深さ:3.75メートル
積載重量:280トン
乗組員:8名
船長:エドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイム
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
翌朝。未だ打ち寄せる高波を突いて小舟2艘を出し、船に残っていた救命ボート1艘とともに、生存者8名(ドイツ人6名、うち女性1名。中国人船員2名)を無事に救出する。その後、ロベルトソン号は激しい波に洗われて破壊され、再生不能となり放棄されました。一部の積荷や、身の回りの品、保存食などを放棄前に回収した(船倉から流れ出して海岸に打ち寄せられた、積荷の茶箱を中身を知らない住民が親身になって拾い集めて来るも、濡れて商品にならない物などいらないと、なじる一幕が船長は日記に書かれていた)。
救出はしたものの相手は赤髪青瞳の外国人なので、言葉が通じずコミュニケーションがうまく出来ない状況でもあったようです(過去に来島した外国船との交流から、少し英語を話せる者もいた)。それでも遭難者たちを手厚く保護し、宮国の村番所(ぶんみゃー:現在の宮国公民館)を宿舎に提供し、米や鶏肉を与えました。この頃の宮古は過酷な人頭税がまかり通っていた時代なのですから、貢物ではないものの8名もの人間に食事を提供するのは、それなりに苦労もあったのではないでしょうか?
また、この遭難事件の2年前に宮古の船が嵐で台湾へ漂着し、原住民に乗組員54名が虐殺される事件(12名が生還)が起こっており、外国人を初めて見るに島民は恐怖を覚えたという話もありました。尚、この台湾の事件を理由に、明治政府は台湾出兵を行い、いわゆる琉球処分(琉球王朝を解体し版図に併呑する)を押し進め、沖縄県の成立と日清戦争へと歴史は続きます。
しばらくして彼らは宮古馬に乗って、宮国から野原(ぬばる)へと移送され、新たな宿舎をあてがわれます(一部には平良へ移ったと記述されている記録もある)。体力も回復し気力も癒えた彼らは、ロベルトソン号から持ち出した銃で、余暇を兼ねて島内の森で鳩を狩ったりするなど、意外にも自由な島の生活を謳歌していたようです。
しかし、いつまでも外国人を島に留まらせ訳にも行かないと、島の役人は中国へ送る船を出してくれるよう首里まで使いを向かわせますが、いつまで待ってもその船はやってこなかったため、たまたま宮古島へ来航していた官船を、王朝の許可なしに島の役人の独断で彼らに与え、難波救出から34日ぶりに島をあとにするのでした。
中国を経由してドイツへと帰国した彼らの逸話を、ロベルトソン号船長のエドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイムが、「ドイツ商船 R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」と題して新聞に発表。それを読んだ時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、宮古島の人々の博愛精神に感動し、1876年に軍艦チクローブ号を日本へ派遣します。
チクローブ号は横浜に入港し、明治政府と宮古島への記念碑を建てる相談をした後、那覇へと赴き琉球藩王を表敬訪問します。もしかしたらこのあたりで、宮古島の役人が勝手に官船を譲り渡した経緯などが不問されたのかも知れません。
そしてドイツ皇帝の誕生日でもある3月22日に、宮古島の中心港、漲水港(平良港)を見渡せる斜面に、博愛精神を賞賛する記念碑が建立されました(現在、博愛記念碑が建つ場所は住宅に囲まれてしまい、海が遠くなってしまっています)。
時は流れて1933年(昭和8年)。文部省から全国の小学校に、埋もれているイイ話を教科書に掲載する企画募集があり、「博愛」と題したこの逸話が一等に選ばれます。1937年(昭和12年)に小学校の修身教科書に掲載され(戦後の道徳。時代背景から皇民化政策の一環と見る向きもあり、同様に久松五勇士も同様に教科書に掲載された)、美談として全国に広く知られることとなります。
また、記念碑の建立から60年目(1936年)にあたり、宮古出身で大阪に在住していた下地玄信が、「独逸商船遭難之地」の碑を宮国(現在はドイツ村内にある)に建てました。この下地玄信(1894~1984年 平良字東仲宗根生まれ)は、県立一中(現・県立首里高校)から東亜同文書院大学(上海に開校された日本人のための大学で、終戦とともに閉校。位置づけとしての後身は愛知大学)を卒業し、公認会計士として国内外で活躍した方で、1975年に育英・奨学を目的とした下地玄信育英会を設立し材育成に貢献しました。
現在、カママ嶺公園に建つ「博愛」の碑は、この下地玄信が他界した1984年に建立されており、碑文に記された「博愛」の文字は、東亜同文書院大学を開校した東亜同文会の会長を務めていた近衛篤麿の長男、近衛文麿の書というリンクがある。
1987年。バブル期のテーマパークブームも手伝って、上野村(現・宮古島市)が宮国のンナト浜に、ドイツ文化村の建築構想を策定し、1996年には「うえのドイツ文化村」がグランドオープン。中心施設のマルクスブルグ城は、ライン川沿いに現存する世界遺産にも登録されている城を再現したもの。この城はドイツを統一したプロイセン王国の支配下にあり、初代ドイツ皇帝となったプロイセンの王は、博愛の碑を贈ったヴィルヘルム1世でした。
余談ついでに、九州沖縄サミットが開催された2000年には、当時のドイツ首相のゲアハルト・シュレーダーがドイツ村を親善訪問しました(これをさらに記念して、空港からドイツ村までの道を「シュレーダー通り」と命名)。
そして2009年。さいが族酋長の宮国優子が「博愛美談・ドイツ商船ロベルトソン号遭難事件」を題材に、あららがまパラダイスコラム「思えば宮古」の執筆を開始しました。
宮国優子の「思えば宮古」
『博愛は美談 ~宮古とドイツ・未知との遭遇~』 巻の壱
『博愛は美談 ~宮古とドイツ・未知との遭遇~』 巻の弐
激動の近代黎明期の沖縄、宮古島の世相はあまり知られておらず、歴史の断片の中から見えてくる姿は、とても興味深いものがあります。
また、宮古近海では知られているだけでもロベルトソン号のほかにも、1797年(寛政9年)にイギリス海軍の探検船プロヴィデンス号が、池間島北方の八重干瀬で座礁・沈没。1855年(安政5年)に多良間島で岩手県宮古市の商船が遭難(その後多良間村と宮古市は姉妹都市に)の他、韓国やオランダなどの外国船が座礁したと江戸後期(概ね18世紀後半の産業革命以降)頃から記録が残されています。
ある意味、知られざる国際交流が近代の宮古では行われていたのではないかと、想像をたくましくしたくなる史実ではないでしょうか。
※ ※ ※
[当時の主な出来事]
1771年(明和8年) 明和の大津波
1871年(明治4年) 宮古島の年貢船が台湾に漂着(3人溺死、54人は殺害され12人が生還)
1872年(明治5年) 琉球藩となる(全国で廃藩置県は1871年)
1873年(明治6年) ドイツ商船ロベルトソン号、宮国沖で座礁。乗組員8人を救助
1876年(明治9年) ドイツ皇帝、軍艦を派遣し、博愛記念碑を建立
1879年(明治12年) 廃藩置県が公告、沖縄県となる
1887年(明治20年) 人頭税廃止運動起こる
1905年(明治38年) 久松五勇士が「バルチック艦隊、見ゆ」を通報
[R.J.ロベルトソン号]
船種:木造縦帆船(2本マスト)
船用途:商業貨物船
船籍港:ドイツ・ハンブルグ
長さ:27.70メートル
幅:7.50メートル
深さ:3.75メートル
積載重量:280トン
乗組員:8名
船長:エドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイム
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(0)
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