2009年10月30日
ロード トゥ ヘコテン ~宮古生まれの漫画家、下川凹天への道~
宮古島から発信する「あんちーかんちー」に、噂の日曜研究家・幸地郁乃が初登場!。内に秘めた熱くたぎる“凹サマ”への熱情を短期集中連載で語ります。
※ ※ ※
宮古島もめっきり秋の風情です。今秋のお出かけ計画に、ぜひ入れていただきたいのが、11月4日から約1カ月間、宮古島市総合博物館で開かれる企画展 「宮古生まれの奇才 漫画家・下川凹天」。彼の作品や人となりは地元ではまだまだ知られていませんが、日本の漫画・アニメ界で活躍したとてもユニークな人物なのです。この企画展の言いだしっぺでもある筆者が、なぜに凹天のとりことなったか、その思いの丈を、この連載で勝手に熱く綴らせていただきます。
下川凹天(しもかわ へこてん 1892年~1973年)という漫画家の存在を初めて知ったのは、2008年7月のこと。宮古島出身のアーティストにはどんな人がいるのかな、と軽い気持ちでネット検索しているうち、あるサイトで彼の名を見つけたのでした。
「ヘコテン? 宮古ぬ、んざぬ人がらやー?」
(上記注:方言で「宮古の何処の人なんだ」という意味ですが・・・。す、すみません、方言がほとんどできない駄目ネイティブなので、無理に使用するのは今後やめときます)
・・・と調べていくうちに、どうやらこの人物が日本で初めてアニメーションを作った人らしいということが分かり、俄然興味がわいたのです。
そこで、職場にときおり顔を出す郷土史研究家のN先生に尋ねることにしました。『宮古風土記』というロングセラー本(宮古入門のマストアイテム)の著者であるN先生は、島の生き地引です。
「ああ、少しなら知ってますよ。父親は九州の方です。校長として宮古にいたときに、その人が生まれているんですね。確か6、7歳には島を離れたらしいのですが・・・」
さすがN先生、全然「少し」じゃなく、いつもの淀みない口調で答えが返ってきました。
N先生はさらに、凹天の父親・下川貞文については『平良市史』人物編の中で自分が解説していること、沖縄キリスト教学院大学のO教授が凹天の研究をしていること、以前に一度、宮古毎日新聞の記事に取り上げられた覚えがあること―を教えてくれました。
私はふだん職場の庶務として、毎日ひたすら伝票や書類を処理しているだけの人間ですが、これだけ面白そうな情報が集まってくると、もう居ても立ってもいられなくなりました。昼休みになると島にあるふたつの図書館に通い、そこで沖縄キリ学の紀要をコピーしました。O教授の研究論文は計4号にわたり、長編小説に挑戦するようにドキドキした気持ちで読み始めました。以下、かなり端折って書き出します。
下川凹天は本名を下川貞距(さだのり)といい、明治25年5月、宮古島生まれ。両親はともに九州の出身。父親の貞文(さだふみ)は明治後期に来島、後に宮古の政治・教育界で活躍する人材を多く輩出した教育者です。凹天はその令息として育ちましたが、7歳で父親が病死。残された家族は宮古島を後に、母の故郷・鹿児島へ渡ります。
やがて東京在の伯父に引き取られた貞矩は、当時風刺漫画の第一人者として活躍していた北沢楽天(きたざわ らくてん)に弟子入りし、凹天のペンネームで執筆を始めます。紆余曲折を経ながらも画力の確かさとセンスの良さで頭角を現した凹天は、20代の頃アニメーション製作に取りかかり、大正中期(1918年)年に『芋川椋三 玄関番之巻(いもかわむくぞう げんかんばんのまき)』を発表。これが日本で初めて劇場公開された商業アニメ作品といわれています。
論文には1973年に千葉県野田市で没した-とあったので、野田市の広報担当課へ問い合わせてみることにしました。昭和時代のことだから、知っている方なんて居るはずないなぁ・・・とネガティブに考えていた私でしたが、なんと運のいいことに、対応してくださったKさんという職員が凹天に関する資料を提供してくれるというのです!。
その数日後には、分厚い封筒が野田市から届きました。Kさんはベテランの広報マンで野田の歴史文化に詳しく、お手紙や資料から、晩年の凹天が野田市の人々から大切にされていたことが分かりました。そのうえKさんの計らいで、晩年の弟子、出野元山さんをご紹介いただいたのです。出野さんは電話の向こうで、凹天の生まれ島の人間が連絡を入れてきたことをたいへん喜んでくれました。出野さんは野田在住ですが、出版流通会社を定年退職後は沖縄本島の大手書店で役員をされており、年に数回来沖されているとのこと。
送られてきた新聞記事のコピーから、1997年に、凹天の弟子・石川進介(いしかわ しんすけ)さんが預かっていた原画など大量の関連資料が見つかったことも分かりました。Kさんによれば、当時かなり話題になり、川崎市市民ミュージアムが資料の大半を引き取ったらしいのですが、その後どうなっているか気がかりだということ。出野さんも同じ思いでした。
こうなってくると、どうしても縁の方々にお会いして、資料の行方を追いたくなりました。
宮古生まれの有名な漫画家が昔いたらしく、詳しく調べたい。その成果をもとに、いずれ何かの形で地元に紹介したい-ということなどを職場の上司に相談しました。幸い、上司も郷土史の研究をしているので理解をいただくことができ、調査に行くことを許してもらったのです!。
つい一カ月前までは、名前すら知らなかった下川凹天。しかし、何か見えない糸に導かれるように、どんどん彼へと向かう道が開けていくのでした。
ここで取り上げた漫画家・下川凹天の作品等を紹介する“里帰り展”が、11月から始まります。
宮古島市総合博物館 第12回企画展
『宮古生まれの奇才 漫画家・下川凹天』
会期 2009年11月4日(水)~12月6日(日)
会場 宮古島市総合博物館 特別展示室 地図はこちら
時間 9:00~16:30(入館は16:00まで)
料金 大人300円 学生200円 児童生徒100円
(団体割引 1人あたり50円引き)
※月曜休館(祝日の23日は開館、24日が振替で休館となります)
お問合せ
宮古島市総合博物館 0980-73-0567
幸地郁乃(こうち いくの)
1970年、宮古島生まれ。旧・下地町(現・宮古島市)と、旧・具志川市(現・うるま市)のハーフであるが、方言使いはどちらも中途半端者。
宮古高校→東京の和光大学を卒業後に帰郷。地元新聞や沖縄本島の情報紙などで取材・編集記者として働く。現在は地方公務員。30代の初め頃、さいが族編「読めば宮古!」(ボーダーインク刊)に、班長(←そんなのがいたんです!)として参加。酋長の宮国優子とは、いつも「あんた、次は何するべきか」と情報交換しては妄想にふける間柄。2008年より日曜大工ならぬ日曜研究家として、下川凹天を追っかけている。
(文+写真:幸地郁乃 編集:モリヤダイスケ)
「ああ、少しなら知ってますよ。父親は九州の方です。校長として宮古にいたときに、その人が生まれているんですね。確か6、7歳には島を離れたらしいのですが・・・」
さすがN先生、全然「少し」じゃなく、いつもの淀みない口調で答えが返ってきました。
N先生はさらに、凹天の父親・下川貞文については『平良市史』人物編の中で自分が解説していること、沖縄キリスト教学院大学のO教授が凹天の研究をしていること、以前に一度、宮古毎日新聞の記事に取り上げられた覚えがあること―を教えてくれました。
私はふだん職場の庶務として、毎日ひたすら伝票や書類を処理しているだけの人間ですが、これだけ面白そうな情報が集まってくると、もう居ても立ってもいられなくなりました。昼休みになると島にあるふたつの図書館に通い、そこで沖縄キリ学の紀要をコピーしました。O教授の研究論文は計4号にわたり、長編小説に挑戦するようにドキドキした気持ちで読み始めました。以下、かなり端折って書き出します。
下川凹天は本名を下川貞距(さだのり)といい、明治25年5月、宮古島生まれ。両親はともに九州の出身。父親の貞文(さだふみ)は明治後期に来島、後に宮古の政治・教育界で活躍する人材を多く輩出した教育者です。凹天はその令息として育ちましたが、7歳で父親が病死。残された家族は宮古島を後に、母の故郷・鹿児島へ渡ります。
やがて東京在の伯父に引き取られた貞矩は、当時風刺漫画の第一人者として活躍していた北沢楽天(きたざわ らくてん)に弟子入りし、凹天のペンネームで執筆を始めます。紆余曲折を経ながらも画力の確かさとセンスの良さで頭角を現した凹天は、20代の頃アニメーション製作に取りかかり、大正中期(1918年)年に『芋川椋三 玄関番之巻(いもかわむくぞう げんかんばんのまき)』を発表。これが日本で初めて劇場公開された商業アニメ作品といわれています。
論文には1973年に千葉県野田市で没した-とあったので、野田市の広報担当課へ問い合わせてみることにしました。昭和時代のことだから、知っている方なんて居るはずないなぁ・・・とネガティブに考えていた私でしたが、なんと運のいいことに、対応してくださったKさんという職員が凹天に関する資料を提供してくれるというのです!。
その数日後には、分厚い封筒が野田市から届きました。Kさんはベテランの広報マンで野田の歴史文化に詳しく、お手紙や資料から、晩年の凹天が野田市の人々から大切にされていたことが分かりました。そのうえKさんの計らいで、晩年の弟子、出野元山さんをご紹介いただいたのです。出野さんは電話の向こうで、凹天の生まれ島の人間が連絡を入れてきたことをたいへん喜んでくれました。出野さんは野田在住ですが、出版流通会社を定年退職後は沖縄本島の大手書店で役員をされており、年に数回来沖されているとのこと。
送られてきた新聞記事のコピーから、1997年に、凹天の弟子・石川進介(いしかわ しんすけ)さんが預かっていた原画など大量の関連資料が見つかったことも分かりました。Kさんによれば、当時かなり話題になり、川崎市市民ミュージアムが資料の大半を引き取ったらしいのですが、その後どうなっているか気がかりだということ。出野さんも同じ思いでした。
こうなってくると、どうしても縁の方々にお会いして、資料の行方を追いたくなりました。
宮古生まれの有名な漫画家が昔いたらしく、詳しく調べたい。その成果をもとに、いずれ何かの形で地元に紹介したい-ということなどを職場の上司に相談しました。幸い、上司も郷土史の研究をしているので理解をいただくことができ、調査に行くことを許してもらったのです!。
つい一カ月前までは、名前すら知らなかった下川凹天。しかし、何か見えない糸に導かれるように、どんどん彼へと向かう道が開けていくのでした。
つづく
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ここで取り上げた漫画家・下川凹天の作品等を紹介する“里帰り展”が、11月から始まります。
宮古島市総合博物館 第12回企画展
『宮古生まれの奇才 漫画家・下川凹天』
会期 2009年11月4日(水)~12月6日(日)
会場 宮古島市総合博物館 特別展示室 地図はこちら
時間 9:00~16:30(入館は16:00まで)
料金 大人300円 学生200円 児童生徒100円
(団体割引 1人あたり50円引き)
※月曜休館(祝日の23日は開館、24日が振替で休館となります)
お問合せ
宮古島市総合博物館 0980-73-0567
※ ※ ※
幸地郁乃(こうち いくの)
1970年、宮古島生まれ。旧・下地町(現・宮古島市)と、旧・具志川市(現・うるま市)のハーフであるが、方言使いはどちらも中途半端者。
宮古高校→東京の和光大学を卒業後に帰郷。地元新聞や沖縄本島の情報紙などで取材・編集記者として働く。現在は地方公務員。30代の初め頃、さいが族編「読めば宮古!」(ボーダーインク刊)に、班長(←そんなのがいたんです!)として参加。酋長の宮国優子とは、いつも「あんた、次は何するべきか」と情報交換しては妄想にふける間柄。2008年より日曜大工ならぬ日曜研究家として、下川凹天を追っかけている。
(文+写真:幸地郁乃 編集:モリヤダイスケ)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(0)
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