ミャークヅツ

あんちーかんちー編集室

2008年10月28日 09:00


宮古島の北端、池間島には自らを「誇り高き池間民族」と呼ぶ人々がいます。彼らは広義の宮古人の中にあって、島で暮らす者としてのアイデンティティを、特に強く保ち続けている人々のひとつといえます。池間島を祖とし、伊良部島の佐良浜や、平良西原地区の西辺へと分村をするも、池間民族としてのまさに誇りともいうべき伝統文化を受け継ぎ、五穀豊穣を祈願する池間民族の豊年祭「ミャークヅツ」を、時を同じくしてそれぞれの集落で行っています。そんな根強い池間島の"民族"としての帰属意識の表れが、「誇り高き」と修飾しているのかもしれません。

ちょっと大げさな書き出しで始まりましたが、初めて「誇り高き池間民族」という修飾が必ずセットになった単語を聴いた時は、酒の席でもあり冗談半分に修飾していると思っていましたが、耳にする回数が増えるにつれ、誰が云ったのか定かではありませんが、池間人であることを誇りに感じる、力強い意識を表す言葉なのだと気付きました。

今回はそんな「誇り高き池間民族」の豊年祭と位置づけられているミャークヅツへと行って来ました。旧暦の九月の甲午(きのえうま)の日から三日間行われるミャークヅツは、人頭税の完納を祝って始まったとされ、秋の収穫が済んだことを神へ感謝し、次の年の豊作を予祝する池間島最大の祭です(2008年は10月21~23日の開催)。

ミャークヅツで一番の特徴といえるのは、島の男性が主導して祭が行われるという点です。ムトゥ(元)と呼ばれるミャークヅツには欠かせない儀礼集団があり、真謝、上げ枡(アギマス)、前ぬ屋(マエヌヤー)、前里の四つムトゥがあり、すべての島民はいずれかのムトゥに属しています。
また、このムトゥは集会所のようなムトゥヌヤー(元の家)と呼ぶ家をそれぞれ所有しており、このムトゥでミャークヅツの期間中、男たちは一切の仕事をせず、ひたすらに酒をくみ交し、労をねぎらい語らいます(といいつつもカラオケに興じる歌声が、覗くまでもなくひたすらに響いています)。
ただ、このムトゥヌヤーの場に参加できるのは、数え歳が55歳以上の男性のみ。しかも、ムトゥヌヤーでは絶対的な年功序列があり、敏腕な社長でも、高名な先生でも年齢が下なら序列は低く、初めてミャークヅツへと参加できる55歳は、酒を振る舞う裏方として年長者の世話役を努めます。
 
もうひとつ、ミャークヅツには欠かせないものにミルク酒があります。1958年(昭和33年)に考案されたといわれる、泡盛をワシミルク(コンデンスミルク。正しい商品名は"ネスレイーグル"。ミルク酒にはこれでないとダメなのだそうな)で割った、口当たりがよくとても呑みやすいスーパーでスペシャルなカクテル。
ミャークヅツの期間中は、誰もがこのミルク酒ばかりを呑むため、ムトゥの裏では大量のワシミルクと泡盛が用意され、ガンガン作られています。


【材料】
泡盛:一升(ミャークヅツでは菊の露が主流でした)
ワシミルク(ネスレイーグルコンデンスミルク):397グラム入、ひと缶
水:適量

【レシピ】
作り方はさまざまにあるようですが、一升瓶で作る場合はこんな感じになります。
 1. 一升瓶入りの泡盛を半分空ける(900ml)。一升瓶がそのまま容器になります。
 2. ワシミルクひと缶すべてを、一升瓶に注ぎ込みます。
 3. 元の一升の泡盛が入っていたところまで水を注ぐ(分量的には500mlくらい?)。
 4. 栓をして、中身がよく混ざるよう、ひたすらにシェイクシェイク。
 5.よく中身が混ざったら、出来上がりです。
 ※ワシミルクが混ざりやすいよう、水ではなく、ぬるま湯またはお湯を使う場合もあります。


ナナムイ(七つの森)に囲まれた、大主神社(オハルズ御嶽)。この御嶽は普段はツカサンマ(司母)の許可がなければ、島民さえも立ち入ることは出来ない神聖な場所。一年に一度、ミャークヅツのナカヌヒー(中日)だけは、島民はもちろん一般人にも参拝が許されています。そのため島の人々を始め、池間島出身の人たちが島外からも、こぞってお参りにやって来ます。
ミャークヅツを漢字では宮古月書くそうで、池間島の言葉でミャークは「楽しむ」、ヅツは「月」を表し、「楽しむ月」というのが本来の意味なのだそうです。ミャークヅツは島の人たちにとって、大きな節目となる行事でもあり、宮古口(みゃーくふつ)で「節」をスツと発音することから、「宮古節」という漢字の表記をあてることもあります。
※今年のナカヌヒー(中日)は10月22日でした。また、ミャークヅツ初日をアラビ(新しい日)、最終日の三日目をアトウヌヒ(後の日)と呼びます。


夕方前、池間島公民館前の水浜広場で、ミャークヅツのメインイベントともいえるクイチャーの奉納が始まりました。
数名のツカサンマたちが神妙に神に祈りを捧げ、広場の真ん中にしつらえた祭壇を中心に、扇子を片手にゆったりとした拍子で御願の舞が踊られ、続いて公民館のスピーカーから、勢いよくクイチャーの囃子が大音響で流れだすと、スラックスとワイシャツにそろいのハッピ姿という、ミャークズツならではの正装した男たちが次々と広場になだれ込み、大きな輪を作ってクイチャーを踊り始めました。
次から次へとノンストップでかかる曲にあわせ、勢いよくクイチャーを踊り続け、やがて周囲で見ていた観客たちも引き入れての大競演となり、クイチャーはクライマックスを迎えました。
その昔は代わる代わる踊りの輪に加わって、一晩中クイチャーを踊り続けていたそうですから、その熱気はもっと熱かったことでしょう。およそ一時間ほど踊り続けられたナカヌヒーのクイチャーは幕を閉じ、男たちはそれぞれのムトゥへと戻ってゆき、島の広場はいつもの静かな夕暮れを迎えました。

池間島の民としての誇り、池間民族の文化として、連綿と続いているミャークヅツは、池間の民の証であり、池間島に息づく歴史であり、池間島が池間島であるための祭りなのではないかと感じました。


ミャークヅツの行われた3日間、同じ池間島で興味深い写真展「忘れがたき故郷池間島」が池間島離島振興総合センターにて催されていました。
1961年の4月から9月の半年間、池間島に民俗学のフィールドワークとして長期滞在した、民俗学者の野口武徳(当時は28歳、まだ院生でした)が撮った、膨大な写真の中から100数点が展示されていました(他に500点ほどを記録した、スライドDVDの上映も行われていました)。
そこに写し出されていたものは、当時の池間島の風景のみならず、野口氏が島に暮らすことによって撮ることの出来た、生き生きとした貴重な池間島の風俗や習慣を垣間見ることが出来ました。

野口武徳 [1933年~1986年]
民俗学者。元・成城大学社会人類学教授。
池間島でのフィールドワークをまとめた「沖縄池間島民俗誌」(1972年 未来社)など、数々の民俗学の著書を著しています。
※沖縄池間島民俗誌は現在、絶版となっています(復刊ドットコム)。

(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
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