久松海神祭~五勇士の系譜
旧暦の五月四日(2009年は5月27日)。航海安全と豊漁を祈願する伝統行事、「ハーリー」が沖縄県内の各地でおこなわれました。地域によっては海神祭や爬龍船競漕とも呼ばれ、息のあった力強い櫂さばきでサバニを漕ぎ、その速さを競う対抗レース。宮古でも漁業が盛んな地域を中心に、ハーリー大会が開催されました。
明け方まで降っていた雨も止み、低い雲がゆっくりと風に流れ、梅雨時のいまひとつすっきりとしない空模様の久松漁港。普段はのんびりとおだやかな時間が流れる漁港ですが、さすがに「久松海神祭」の今日ばかりは違っていました。
ここ久松地区は古くは野崎(ぬざき)と呼ばれていましたが、現在は隣り合う久貝の「久」と松原の「松」のふたつの集落の名をあわせた地域名、久松(ひさまつ)として親しまれています。また、かの久松五勇士を生んだ海人の集落としてもその名が知られ、勇ましくサバニを漕ぐハーリーへの思いは熱く、久貝と松原の両自治会が合同で開催する久松海神祭には、たくさんの観客が訪れて繰り広げられる熱戦を楽しんでいました。
漁港内に特設されたハーリーのコースは、船揚場から防波堤手間のブイを廻って往復する単純なものですが、地域の職場を中心とした16チームのトーナメント戦で、優勝賞金五万円を賭けての戦いは、予選から白熱したレースが展開されました。
一方で、練習不足なのかヨタヨタと右へ左へと迷走したり、スタートダッシュを見せるもスタミナ切れで失速したりするサバニもあり、勝敗だけでなく、そんな姿にも盛んに声援が贈られていました。
たくさんの観客が訪れてる中に、家族の運転する車で岸壁に乗りつけ、窓越しにハーリーを見ているオジィを何人か見かけました。きっと若い頃にサバニを漕いだ記憶がよみがえり、ハーリーの日にじっとしていられず、レースを見に来たのでないでしょうか。やはり歳を重ねても熱き五勇士の系譜を持つ、久松のオジィたちなのかも知れません。
トーナメントの決勝を前に、久松中学校の生徒たちによる対抗戦が行われました。女子の部には生徒の母親のチームが特別参加して、意外といっては失礼だが、娘たちには負けないとばかり一位に肉薄する漕走を魅せてくれました。
中学生のトリを飾った二・三年生男子によるレースは、大人顔負けのサバニさばきの好レースを展開、二年生のチームが下克上の勝利を飾りました。子供たちの気合の入ったがんばりを見ると、次世代の海神祭を担う、平成の五勇士を見た気がします。
いよいよ各ブロックを勝ち抜いた4艇が優勝を競うトーナメント決勝がスタート。勇ましい櫂さばき、力強く漕ぎ出されるサバニは、海神祭のフィナーレにふさわしい激しい競漕を繰り広げて、観客を大いに沸かせてくれました。
子供たちからオジィ、オバァまで集落の人々を魅了する久松のハーリーは、海人の技量を競うサバニレースという側面だけではなく、郷土の英雄として今も尚語り継がれている五勇士を誇りを、脈々と地域の伝統として受け継いでいるからではないでしょうか。
◆久松五勇士(ひさまつごゆうし)
1905年5月。那覇の帆船乗り奥浜牛(おくはまうし)が、宮古島付近を北上しているバルチック艦隊に遭遇。艦隊は中国人と誤認して見逃すと、奥浜は宮古島の漲水港(平良港)へ入港し、すぐさま役場へ報告をもたらす。
しかし、当時の宮古島には通信施設がなく、施設のある石垣島へと使いを出す事となり、松原村の垣花善、垣花清、与那覇松、与那覇蒲と、久貝原の与那覇蒲(同姓同名)の漁師五人を選抜。
怒涛逆巻く黒潮のしぶきを浴びて五人はサバニで、およそ15時間、170キロもの距離を漕ぎ抜き、石垣島の東海岸(伊原間)へとたどり着きます。さらに30キロの道のりを歩いて八重山郵便局へと駆け込み、「敵艦見ゆ」の報が那覇へ電信され、沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。
実際に大本営への報告は、信濃丸(当時は日露戦争にあわせ、海軍に徴用されてた仮装巡洋艦。本来は日本商船の貨客船)がもたらした情報が早く、直接役に立つことはなかったが、昭和に入ってこの事実が発掘され、教科書に掲載など世に紹介され、一躍評価が高まり五人は郷土の英雄となった。
琉球処分からわずか20数年の沖縄で、素朴な国への勤めとして命がけの任務を果たした事実や、後に戦争へと傾倒してゆく中で、国威啓発する美談として利用されるなど、純粋で真面目な島人たちの心根が、列強が彩る歴史の奔流に、翻弄され続ける島の運命を垣間見れるエピソードのひとつ。
余談として、最新鋭戦艦4隻を擁する世界最大最強といわれたバルチック艦隊はこの後、日露戦争・日本海海戦(対馬沖)で大日本帝国海軍に敗れ、世界を震撼させるニュースとなります。そしてロマノフ王朝の崩壊、ロシア革命へと繋がってゆくのですが、そもそもバルチック艦隊は、スカンジナビア半島に抱かれたバルト海を任地とする帝政ロシアの艦隊で、極東ロシアで増大する大日本帝国の脅威から、脆弱な太平洋艦隊(旧ウラジオストック艦隊)への増派目的で送り込まれたものでした。
艦隊はヨーロッパからアフリカ大陸南端の喜望峰を廻り(一部の小型艦艇はスエズ運河を通過するも、当時のスエズは日本の同盟国イギリスの支配下にあったことにも起因)、本来、遠洋航海向けでない駆逐艦など小艦艇を引き連れ、マダガスカル、仏領インドシナ(現ベトナム。フランスはロシアの同盟国)を経由して、はるばるウラジオストクに向かう長旅の果てに行われた対艦戦でありました。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
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