ガイドブックでは紹介されることのない、島のローカルを訪ねる散歩の旅を提案する「島AP×島AP」。
今回は△の形をした宮古島の右斜辺の真ん中あたり、通称・北海岸に面した半農半漁の高野集落(宮古島市平良字高野)をぶらりと歩いて来ました。
1961(昭和36年)年。琉球政府の移住計画により、大野山林の一角を開墾して作られた高野集落は、食糧事情に悩む大神島と多良間村の水納島を中心に、40戸275名の家族が入植して、新しい“村”として生まれました。
計画的に作られた集落は碁盤の目に区画され、宮古島では珍しい集落を形成しています。入植にあたり同じ規格で作られた10坪のスラブ打ちの家が、今もまだ残っており、近代民俗を知ることの出来る貴重な集落でもあります。
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それでは早速、集落の北東にある公民館。正しくは「高野集落農村集会所」から旅をスタートさせましょう。集会所の脇には大きく立派なガジュマルのがあり、ちょっとくたびれた遊具と、ハーリー用のサバニが置いてありました。
そして青々とした芝生が広がった先には、真新しい大きな石碑が立っています。開拓開墾を記念する石碑で、開村当時の風景などを写真入で紹介し、高野集落の歴史が詳しく書かれていました。
それともうひとつ、ひと回り小さい「闘魂 入植拾五周年」と書かれた石碑もありました。一瞬、周年数が合わずに「?」となりましたが、詳しく紹介されている石碑の中に、この拾五周年の碑をバックに撮影された写真があり、ようやく合点がいきました。
高野集落は計画された集落なので、区画が綺麗に整ったスクエアになってますが、縦横の道路軸は、磁北や極北を基準とした東西南北ではなく、東西平安名崎を基準とした宮古的な東西南北(あくまで自論ですが、この事例に照らし合わせると、島内の地名が説明できる事が多い)に沿って作られているようにも思えるので、便宜上、右斜め上方向(集会所を北と定義。極北基準では概ね北東)を北としてレポートすることとします。
集会所を出て、まずは一番東端の通りを進んで、集落の南の方へと向かってみたいと思います。わずかな距離ですが、東端まで出ると、唐突に村はずれ的な淋しい風景になりました。元々、何もなかった山野を切り開いて作られた集落なので、周囲はサトウキビ畑が一面に広がっているだけだからでしょうか。
高野集落の家々は、車道に囲まれた街区ひとつに五区画が均等に配され、南側に私道が作られていますが、私道はなぜか東西どちらか片側の道路にのみ出入り口が作られ、通り抜けが出来ない設計になっています。でも不便さから、その壁を壊して通り抜け出来るように改造してしまった家も中にはありました。
気づけばあっという間に集落の最南端に到着です。人家の切れたその先には、やはり広大なさとうきび畑が広がっていました。そんな一角に「狩俣鮮魚店」というお店が一軒。壁に直書きされた看板の文字も薄れ気味で、営業している雰囲気はありませんでした。
高野の街区は南北に比べ東西が極端に短く、すぐに一本隣の道になるのですが、せっかくなのでひと筆書きのように辿ってみようと思い、次の道を北へ向けて戻ってみます。
入植時のままのスラブヤーを、今風の二階家に立て替えてたり、私道部分をつぶして庭を広げるなど経年変化も様々です。中には壁を取り払って椰子を生垣に植え替え、庭だった場所を耕して畑にし、母屋は倉庫にしてしまった区画もありました。住人はもう高野には住んでいないのでしょうか・・・。
すべてが昔のままというわけではありませんが、当時の作りの建物を見ると、近代沖縄の雰囲気が伝わってくる気がします。
再び、集会所前へと戻ってきました。この通りの最後の家の裏庭に、大量の島唐辛子が植えられ、緑、赤、黄と鈴なりで実っていました。
一本西側へ移り、三本目の道を南に進みます。先ほど南端で見つけた「狩俣鮮魚店」が、新しくしかも大きくなって営業をしていました。集落唯一の商店ですが、宮古島市自体が過疎とみなされる市町村(
過疎物語より)とされており、全国的にも限界集落の危機(沖縄県内で消滅するであろうと予想される集落が、国土交通省の調査によると、場所は明かされていませんが、少なくとも二ヶ所あると予想されています)が叫ばれ、高野集落も高齢化や後継者問題というもあるようですが、集落内に商店が維持できているので、当面は大丈夫と思われますが、島内には商店を失った集落も数多いので、目の前に迫った超高齢化社会の到来と合わせで考えなくてはならない問題のひとつでもあります。
高野集落は北海岸を下った先に造成された高野漁港があり、漁業従事者も多いことからでしょうか、水字貝(スイショウガイ科の巻貝。宮古島市の市の貝としても制定されています)が門柱に飾られています。水の字に似ていることから火難除け、魔除けの風習として吊るされています。聞くところによると、元々シーサーは沖縄の風習で、宮古では水字貝がシーサーの代わりだったそうです。また、由来や意味などは未確認なのですが、貝の内側(穴のある方)表にしている地域と、外側を表にして吊るす地域があるようで、大神島や高野では内側が表にしてありました(入植の関係性もあるから似かよるとは思われます)。
またまた集落の南端に到達してしまったので、次の道をまたまた北上しようと思ったのですが、なにやら西のはずれに延びる怪しい道を見つけてしまったので、そちらに寄り道をしてみました。
その奥にあったのは集会所のような建物がありました。どうやら排水処理施設のようです。集落の地下は地下ダムの貯水域になっているようで、不要な排水をしないために処理をする施設でした。
再び集落散歩に戻りましょう。四本目の集落道を北に向かっていると、集落で唯一の企業?らしき、高野開発なる土木屋さがありました。さすがに島で土木は強いです。大抵、ひとつふたつはそれらしき商売をしているところが必ずあります。
ふと気づいたのですが、農家であれば乗用型の「赤いトラクター」が庭先にあったりするのですが、ここ高野では見かけません。サトウキビ畑には囲まれている集落ですが、農業よりも漁業の方が盛んなのでしょうか?。
三度、集会所前の通りへと戻りました。集落の通りをひと筆書きで巡ったので、これで総ての家を眺めたことになりましたが、集落で最後となった家には、どことなく宮古らしくない、ひと昔前ならハイカラ(死語)とも取れるような窓がありました。
実はもう一本、集落の西端に道があるのですが、大野山林と集落の境目にはさとうきび畑があるのを、寄り道した時に先に見てしまったので、最後の一本は省略して気になった場所へ向かい、高野集落の散歩の旅を閉めたいと思います。
集落の西の外れ、南国の旺盛な自然に蹂躙された公園があります。今や東屋には人が入ることを拒むほどに緑に侵食されていました。比較的、作りは新しい感じがする公園です。開村当時の航空写真などを見ると、この公園の姿は勿論ありません。恐らくは利用見込みも考慮せず、地域振興の名目で造成したものではないかと推察できます。
本来の生まれ育った里を離れて、開拓地に入植して一から集落を作り上げ、営みの場として大切にしてきた歴史こそが集落の隆盛であり、そこに必要のない公園を作ることではないと、集落を巡り歩いて改めて感じました。
※すべての集落は島の方々が生活を営んでいる大切な場所です。集落を散策する場合には、必ずマナーを守り楽しみましょう。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ イラスト地図製作+写真協力:山田光)