佐良浜のミャークヅツ

あんちーかんちー編集室

2009年10月20日 09:00


宮古島の北西、伊良部島の東海岸にある佐良浜地区で、旧暦の八月または九月の甲午(きのえうま)から四日間に渡って開催される、「ミャークヅツ」が集落をあげて賑やかに行われました。
その賑わいは平良から臨時便が運航されるというほどで、ミャークヅツの催される四日間、佐良浜は祭り一色に染まります。

土地が狭い池間島から薪の採取や出耕作のため、対岸の伊良部島まで往復していましたが、1720年頃に池間島から分村して、伊良部島東部に新しく池間添(伊良部字佐良浜小字池間添)という集落を興した。その後、1776年に前里添(伊良部字佐良浜小字前里添)の集落も作られ、現在の佐良浜が形作られました。どちらの集落名に「添」という字があるのは、現在も池間島にある「池間」と「前里」のふたつの字名から取られたもので、池間島を祖とする「誇り高き」池間民族の集落であることを物語っています。
ミャークヅツも池間島からの分村によって伝えられた大切な祭事で、元来の形は「節祭」でスディ水(バガミズ=若水)を浴びて若返り、一年の健康を祈る節目の行事を集落をあげて盛大に祝うもの。また、そのルーツは伝承のひとつによると、ある夫婦の子供が病死してしまいお墓に埋葬をするも、もう一度我が子の顔がみたいと、墓を開けてみると子供はすでに腐乱して見る影もなくなっていた。どんなに可愛がっていても死んでしまえば終わり。生きている時だけが極楽なのだと悟り、現世をとことん楽しむための祭りとしてミャークヅツが始まったともいわれ、ミャークヅツの間は、仕事は休み。酒を呑み。踊りまくる。というなんとも楽しげなお祭りなのです。
急斜面に張り付くように立ち並ぶ佐良浜の集落の中ほどに、ミャークヅツの中心となるムトゥ(儀礼集団)があります。見た目は普通の古い民家で、池間添にはマジャムトゥ、マイヌヤームトゥ、アギマスムトゥの三軒、前里添にはジャー(座・広場)に隣接した一軒があり、池間添では数えの47歳、前里添では50歳からウヤとして祭りへの参加が許され、ミャークヅツを盛りたてます。
池間添のツカサンマ(司母)がムトゥでの祈りを捧げ、供物を先頭に一列になって坂道を、ジャーへと登ってきました。ジャーに隣接して建つ「旧池間村拝所」の前で一願して建物の中へ。続いておそろいのポロシャツをまとった男性陣もぞろぞろと入室すると、東に向かってツカサンマたちの祈りが始まりました。東は海を隔てた池間島の方向です。
拝所での祈祷を終えて出てきた一団は、ジャーの中央に置かれた泡盛の甕を前に座して、果報がやってくるという南に向かって祈りが始まりました。ミャークヅツの期日を定める基準となっている「甲午」の午(うま)も、南をあらわしています。儀礼のひとつひとつに意味が込めらおり、とても興味深いです。
池間添ジャーの中心に据えられている甕に満たされた泡盛は、よく見るとミルク酒(ワシミルク=コンデンスミルクで割った白く甘い泡盛)ではありません。隣の前里添や池間島のミャークヅツではミルク酒が使われていますが、池間添の泡盛は透明のままです。聞くところによると、ワシミルクの代わりに大量の砂糖が入っており、飽和状態寸前のねっとりとした泡盛なのだそうです(いずれにせよ甘いお酒には変わりはなく、ミャークヅツには必然のようです)。
ツカサンマの後ろに控えているウヤの男たちが、この甕の泡盛を一杯づつ呑み終えたところで儀礼が終わり、いよいよジャーでの踊りの始まりです。
クバ扇を手にしたツカサンマが独特の節回しで唄いながら、反時計回りに円を描きながら踊りの輪を作ります。後ろに続くウヤの男たちは拳を突き上げ、脚を鳴らして全身を使ってヒヤサッサと威勢良く踊り始めました。
細い道を一本挟んだ向かいにある前里添のジャーでも、ミャークヅツの踊りが始まっていました。互いのかけ声が届く距離で、まるで競い合うように踊られるその様子に誘われるように、集落の人々が続々と集まって来ました。
やがて老いも若きもが代わる代わる踊りの輪へと加わり、一緒になってただただエンドレスに繰り返される踊りを繋いでゆきます。
本当に楽しげに唄い踊って酒を呑む。ただそれだけなのに「生きている時こそが極楽、この世を楽しむ」というミャークヅツの本懐にあふれた、誰もが自然と笑顔に満たされるお祭りでした。
池間島からの分村によって佐良浜へともたらされたミャークヅツは、自らを「誇り高き」と形容する池間人の"民族"としての誇りと伝統を、色濃く受け継いだ佐良浜の民”としてのアイデンティティが形成されているように感じます。ここからはあくまでも自説ですが、佐良浜や池間に限らず、特に島の集落単位での祭事では、小さな力を結集して大きな力を生み出す、“熱”のような圧倒的なこの“力”を魅せつけられます。きっとこれは長きにわたって人々を苦しめた、悪しき人頭税がもたらしたものではないでしょうか。どこか宮古の人々の中に“業”にも似た、アイデンティティとしてDNAに描き込まれているような気がしてなりません。
集落の結束と一体感はとどまることを知らぬ熱狂のごとく、夜の帳が降りても佐良浜のミャークヅツはまだまだ続いてゆきます。

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ミャークヅツ(2008年池間島)
(文+写真+編集:モリヤダイスケ 取材協力:歴史文化ガイドの会)
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