2009年09月15日
鳳の作りしもの~鳳作忌に知る肺碧き俳人の物語
世界恐慌、満州事変、スペイン革命、ヒットラー内閣成立と、第二次世界大戦へと世界は突き進もうとしていた、そんな時代。ひとりの青年が教師として宮古島に赴任しました。夭折の俳人、篠原鳳作(しのはらほうさく)その人である。70年以上も前の小さな出来事ですが、鳳作が島に残したものは、とても大きく、色あせることなく今も輝きを放ってます。
『しんしんと肺碧きまで海の旅』
鳳作が読んだ代表的な句のひとつである。特に俳句を知らなくても、どことなく鮮やかな情景が浮かぶ、とても素敵な句だなぁと感じませんか?。俳句を嗜んでいた鳳作は、常夏の南洋の島で俳句を詠み進めるうちに、俳句には欠かせないはずの季語に悩み、やがて「無季俳句」へと傾倒してゆきました。そしてこの「海の旅」を初めとするたくさんの無季俳句の傑作を詠み、新興俳句の旗手として俳壇に輝かしい軌跡を印します。
明治39年(1906年)
篠原鳳作は鹿児島市に生まれる。
大正15年(1926年)
東京帝国大学法学部政治学科に入学し、ホトトギス事務所の句会に出席。
昭和4年(1929年)
大学を卒業し、鹿児島へ帰郷。本格的な俳句探求を始める。
昭和6年(1931年)
4月。沖縄県立宮古中学(現在の宮古高校)へ、英語と公民の教師として赴任(25歳)。
昭和9年(1934年)
宮古中学の応援歌を作詞作曲する。同年9月、故郷、鹿児島へと転任(28歳)。
昭和10年(1935年)
多くの無季俳句を発表して高い賞賛を得る。同年、妻・秀子と結婚。
昭和11年(1935年)
9月17日6時55分。自宅にて死去。享年30歳。
遥か南洋の彼方にある宮古島に、25歳の鳳作青年がやって来たのはことは、運命の導きだったのではなかっただろうかと、資料をひも解いてみて感じました。
昭和恐慌の時代にあり、「大学はでたけれど」という流行語も生まれたほどの未曾有の就職難。鳳作は帝大を卒業したものの、東京では職には就けず鹿児島へと帰郷し、在学中に始めた俳句に没頭して頭角をあらわす。宮古中学の山城校盛良校長(宮古中学の前身、沖縄県立第二中学宮古分校主事。後に第二代・宮古中学校長)の強い勧めもあり、鹿児島で内定した仕事を断って、宮古島へ教師として赴任しました。「命の原始性、自然の生命力」を提唱していた、若き鳳作の覇気を感じさせるエピソードです。
こうして宮古中学で教鞭をとることとなった鳳作は、彼の魅力的な人柄と熱心な教師として向学心を鼓舞したことから、たくさんの生徒たちに慕われたそうです。また当時、決して豊かとはいえなかった島の文学土壌に、鳳作の俳句は少なからず一石を投じるものであったともいわれ、1997年には「篠原鳳作忌・全国俳句大会」で、宮古中学の後身となる宮古高校の生徒たちが参加し、学校が特別賞を受賞するなど、昭和初めに鳳作によって蒔かれた小さな種が、平成の世に至ってもしっかりと根付いていることを知らしめました。
ところが鳳作にとって宮古島での生活は、わずかに3年半でしかありません。しかし、鳳作の30年という短い人生からみれば、季節感が薄い南国の島という環境が無季俳句を生み出し、揚々たる青春の日々を過ごした運命の地ではなかったかと思えてなりません。
冒頭の「しんしんと肺碧きまで海の旅」の句碑が、宮古島市内のカママ嶺公園の丘の上に建てられています。不思議なことに碑に印された俳句の面を背にして建っています。実はこの碑は、鳳作の郷里・鹿児島の方角を向いているのです。その鹿児島の地にも句碑があり、宮古島の句碑と向き合うように建てられているのだそうです。句碑は鳳作が夭逝して36年後の1972年(沖縄復帰の年)に建立されましたが、熱い想いにあふれた鳳作が宮古に残したものの大きさが、強く宮古の人に影響を与えていて、いかに愛されているかが伺えます。
ヴィジョンと言ふものは素朴であらうと無理論であらうといゝのではあるまいか。ただ力強いヴィジョンでありさえすれば。私はこのヴィジョンを追ふて一羽の鳥となり詩魂の高翔を続けたい。
常に高みを目指す鳳作の想いが込められた言葉です。季語を重視する向きのある俳句にあって、無季俳句のへ情熱を傾けたり、就職難の中で内定を蹴ってまで宮古島へ教師として赴いたりと、決して派手な印象はないものの他にはないオリジナリティを示す意志が感じられ、どこか宮古の持つ濃いアイデンティティにも通じている気もして、島の人に受け入れられたのかもしれないと感じました。
9月17日の鳳作忌にあわせ、俳人・篠原鳳作の原稿を書くにあたり、鳳作のお話を聞かせていただいた童話作家のもりおみずき(友利昭子)さんは、実際にお父様が宮古中学で教鞭をとっていた鳳作の教え子だったそうです。鳳作“先生”の話を聞いて育ち、自らも宮古高校に学んだ後に、母校である宮古高校で国語科教師として鳳作と同じ教壇に立ったという、鳳作の熱烈なファンにして鳳作の探求者。鳳作のすべてを静かに熱く語ってくれました。ここにもまた静寂の中の強さを秘めた、鳳作の想いを受け継いだ人がいらっしゃいました。これほどまでにさまざまに影響力を放った篠原鳳作。どれほどに魅力的だったのか、逢ってみたかったです。
俳句。五・七・五の17文字だけで詠まれる世界最短の詩。
最後に、鳳作の残した無季俳句をいくつか紹介しておきます。
『満天の星に旅ゆくマストあり』
『幾日はも青うなばらの円心に』
『颱風や守宮のまなこ澄める夜を』
『蟻よバラを登りつめても陽が遠い』
『一塊の光線となりて働けり』
今回、鳳作忌というタイミングで俳人・篠原鳳作を取り上げるにあたって、自分なりの鳳作像を研究をして見ましたが、リーマンショック、テロとの戦い、大きな政治的変革と、時代背景がどことなく鳳作の生きた時代と似ているような気がしてならない現在。この先の未来になにが待っているのかは判りませんが、もしかしたら鳳作のような人が宮古のどこかに現われているかもしれない。そんな予感のような気がするのは思い過ごしかもしれませんが、鳳作の軌跡に触れて、一句でも読み返してみると、もしかしたらその答えが見えてくるかもしれません。
[篠原鳳作の常設展]
ギャラリーうえすやー
宮古島市平良字下里574
http://uesuya.ti-da.net/
営業時間 12~18時 木曜定休
(9/17~27はイベントのため鳳作常設展は休止)
※鳳作は俳号で、本名は國堅ですが、構成上、鳳作で統一しました。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ 協力:ギャラリーうえすやー)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(2)
│あんちーな特集
この記事へのコメント
面白かった!!!!
ありがとうございます。
今度訪ねてみたいです。
『満天の星に旅ゆくマストあり』は素晴らしすぎです。
30歳で亡くなったんですね。結婚したばかりだったのかな。
時代背景も含めて、相当気になります。
ありがとうございます。
今度訪ねてみたいです。
『満天の星に旅ゆくマストあり』は素晴らしすぎです。
30歳で亡くなったんですね。結婚したばかりだったのかな。
時代背景も含めて、相当気になります。
Posted by 3892 at 2009年09月18日 07:44
3892様>
コメントありがとうございました。
鳳作は、宮古を離れた翌年結婚して、
2月に長女が生まれるも、その年の9月になくなります。
死因については、諸説があるそうです。
個人的な好きなのは、
『颱風や守宮のまなこ澄める夜を』
なんか台風の風音と一緒に、
ヤモリの泣き声が聞こえてきそうで。。。
コメントありがとうございました。
鳳作は、宮古を離れた翌年結婚して、
2月に長女が生まれるも、その年の9月になくなります。
死因については、諸説があるそうです。
個人的な好きなのは、
『颱風や守宮のまなこ澄める夜を』
なんか台風の風音と一緒に、
ヤモリの泣き声が聞こえてきそうで。。。
Posted by あんちーかんちー at 2009年09月21日 00:58