2010年01月29日
坂の上の船 -水平線の彼方にあるもの-前編
1905(明治38)年5月27日午前。日露戦争で日本の勝利を決定づけることとなる日本海海戦が対馬沖で始まります。戦艦同士の海戦は一昼夜に渡って続き、翌28日10時53分、バルチック艦隊の降伏によって連合艦隊が勝利して日露戦争の雌雄が決します。
この海戦は近世の複雑に絡み合った世界情勢と東洋対西洋の構図の中で、エポックメーキングな「事件」であったことは、その後の歴史の流れからもよく知られています。そんな海戦と同じ頃、琉球処分からわずか20数年の沖縄でも、大海原を舞台にした物語が展開していました。今回の自由研究のテーマは「黒潮の闘魂」、久松五勇士の物語です。
1904(明治37)年10月15日に、現在のバルト三国のひとつラトビアの港、リバウ(リエパーヤ:ラトビア語)港を出港したバルチック艦隊(バルト海艦隊の意味で、正しくはバルト艦隊から増援のため新たに編成した、第二・第三太平洋艦隊)は、大西洋からアフリカ大陸南端の喜望峰を廻り(一部の小型艦艇はスエズ運河を通過出来たが、当時のスエズは日本の同盟国イギリスの支配下にあった)、マダガスカル島を経てインド洋を渡り、仏領インドシナ(現ベトナム。フランスはロシアの同盟国だった)のカムラン湾へ半年以上もかけ、長躯33340キロもの航海をして到達しました。
この時すでに日露戦争は満州と朝鮮半島の覇権(権益)をかけて始まっており(1904年2月8日開戦)、ロシアの太平洋艦隊は蔚山沖海戦で戦力の大半を失い(当初のロシアの目論みは、バルチック艦隊の増援をもって、圧倒的な戦力で東洋の小国を撃破する計画だった)、ロシアの極東重要拠点である旅順要塞の攻略(いわゆる二〇三高地)など陸軍も奮闘しており優勢であった(その後も続く奉天戦線は消耗戦の膠着状態)。そんな戦況と長旅の中で、いよいよ物語が動き始めます。
1905(明治38)年5月19日。カムラン湾(ベトナム)からロシア極東基地のウラジオストックに向けて出港したバルチック艦隊の足取りを、連合艦隊はバシー海峡(フィリピンと台湾の間)を通過後にその行方を見失ってしまいます。
1905年5月23日。那覇の帆船乗り、奥浜牛(おくはまうし)が宮古島東方沖を北上するバルチック艦隊と遭遇します。しかし、艦隊は船に掲げられた龍の大漁旗と、独特の長髪をした風貌から中国人と誤認して奥浜を見逃します(西洋人からしたら、中国文化の影響を受けている琉球人と中国人の区別がついたのでしょうか)。
1905年5月26日午前10時頃、宮古島の漲水港(平良港)へ入港した奥浜は、すぐさま駐在所の警察官とともに役場に駆け込んで「艦隊、見ユ」の報告をもたらします。あわてて報告したということは、バルチック艦隊を見失ってからわずか数日で、電信施設もない宮古島の民間レベルまで捜索が周知されていたのでしょうか。思うに奥浜はバルチック艦隊と遭遇して驚いたことを話し、それが大きな問題だったことで発覚したのではないしょうか(季節的には梅雨時ですが、当時の海況については一切不明。奥浜は那覇から宮古に向かっていたのか。大漁旗があったということは漁をしていたのか。船にはひとりしか乗っていなかったのか。風貌から誤認しているからにはそれなりに接近していた?・・・疑問は尽きない)。
宮古島東方沖を通過する艦隊を発見してから、奥浜は漲水港に入るまで3日かかっています。一概に比べられませんが、座間味=那覇間で行われているサパニ帆船レースは、およそ41キロを4時間程度で走破しているので、発見推測位置が正しいとするなら、素人考えではありますがもう少し早く到着していそうな気もします。
第一発見者の奥浜牛の名誉のためには付け加えるとするなら、水平線までの距離は波打際(サバニのような船の上でも同じ)に立った状態での目線(目の位置なので身長より少し低い。150センチと仮定)からだと、およそ4.5キロほどしか見えていません(当然、周囲に陸地がなければ四方は海しか見えない)。たとえば東平安名崎(約20メートル)のような高さのあるところから見たとしても、水平線までの距離はせいぜい16キロくらいしか見えていないので、本当に大海原のど真ん中で40隻もの軍艦に遭遇した奥浜は、たいそう驚いたに違いありません。
話を戻しましょう。この「艦隊、見ユ」の報告を受けた宮古島庁(島司/当時の監督官庁)は大騒ぎとなりますが、当時の宮古島には通信施設がなく、施設のある石垣島へ使いを出すことを決定します。
松原村の垣花善、垣花清、与那覇松、与那覇蒲、そして久貝原の与那覇蒲(同姓同名)の漁師5人が選抜され、130キロ先の石垣島を目指して使命を胸にサバニで漕ぎ出します。
ですが、ここからが問題。たとえばWikipediaの久松五勇士の項目などの標準説では、「石垣島まで15時間かけてサバニを漕ぎ、更に30キロの山道を歩き、5月27日午前4時頃に八重山郵便局に到着し、電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた」とされています。
到着時間から逆算しても、サバニを漕ぐだけでも宮古島を26日の午後1時には宮古島を発たないと、石垣島には到着しません。ましてや到着後に30キロの山歩きをしたのだとしたら、時速4キロとしても単純に7時間半はかかることになります。その時点で奥浜牛が漲水港に到着したとされる26日午前10時を越えてしまいます。ましてや170キロ(地図上の計測では両市役所間は約130キロ)もサバにを漕ぎ続けた後に、不眠不休で30キロを歩くことが出来るとしたら、トライアスリートも真っ青な鉄人に違いありません(しかも、逆算値の時刻は夜の8時頃。ましてや石垣島の地理を熟知しているとも考えにくい)。
記述の信憑性があやふやになってきたところで、郷土史研究の資料をあさってみると、第一のポイントとなりそうな奥浜牛の入港についてはあまり語られてはいませんが、どうやら5月26日午前6時(6時半、7時という説もあり)に久松のウプドゥマーラ浜を出発していることは間違いないようです。第一発見者の報告が発見から3日かかっている点や、前出の発見位置の情報を考えると、奥浜牛がもたらした「艦隊、見ユ」の情報は、もう少し早く宮古島届いていたのではないかと推考したくなります。
もう一点、海軍への電信の着信日時からも推察を加えたいと思いまする。残されている電文には「五月ニ八日午前七時十分 八重山局発。五月ニ八日午前十時 本部着。発信者 宮古島司、同警察署長。受信者 海軍部。本月二十三日午前十時頃、本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、柱、二、三、煙突二、三、船色赤ニ余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、東北ニ進航シツツアリシガ、内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。但シ、船旗ハ不明。右、報告ス」というものであったようで、五勇士が八重山に到着したとされる5月27日の翌日、5月28日午前7時10分に発信されたことになっているのです。当時の電信技術がどの程度のものかは判りませんが、八重山の郵便局から那覇の本局経由で大本営に送られるタイムラグがあったとしても、丸一日もの空白は大きな謎といわざるを得ません。
久松五勇士の物語は「敵艦 見ユ」の報をもたらした郷土の英雄として語られていますが、実際にはその知らせは第一報とはならず、「遅かりし一時間」として後に昭和の初頭に愛国美談として発掘され、時流に乗って戦意高揚の喧伝へと利用されることになります。事象全体に軍事色が強いこともあり、現在の久松五勇士はどちらかといえば勇ましい海の男たちというイメージで地元では取り上げられています。
記録の上でバルチック艦隊を発見した第一報は、信濃丸がもたらした情報が先に大本営へと届いていました。
1905年5月27日午前2時45分。連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が、九州西方海上を北進するバルチック艦隊を発見し、同日4時45分に第一報として「敵艦、見ユ」を打電。先島で五勇士たちが奔走するのとは別のところで、日本海海戦は始まろうとしていました(個人的見解として、この信濃丸による第一報の日時が五勇士の八重山局到達とほぼ同着なのは、単なる偶然なのだろうか・・・)。
先に記した五勇士の発した電文は5月28日午前10時の着電であり、信濃丸の第一報は一日前の27日午前4時45分の発信です。伝達時間を無視した八重山からの発信時を基準にしたとしても、教科書に救国美談として掲載された「遅かりし1時間」を大幅に上回る「遅かりし18時間」となってしまいます。
1905年5月27日午前6時。やがて信濃丸は偵察に駆けつけた巡洋艦「和泉」とバルチック艦隊の追跡を交代。同日午前5時5分には、韓国・釜山に集結していた連合艦隊全艦艇に出撃命令が下り、遂に午後13時39分に対馬沖で日本海海戦の戦端が開かれます。
「黒潮の闘魂」久松五勇士。わずか100年ちょっと前の話ではありますが、記録ではなく記憶に頼らざるを得ないのが残念でなりません。当時の日本のナショナリズムで沖縄を描き、愛国美談として喧伝されたという側面が大きく影響しているようです。時に歴史は都合よく書き直されたりするので、もしかすると純粋な想いから生まれた本質と、メディアによってより美しく描き出された物語が、さまざまに人の記憶の中で交錯して作られたものが史実として歴史として語られているのかもしれません。もはや真実は大海原を一心に漕ぎ続けた、若き日の五人の若者だけしか知らないのかも。
自由研究を進めると思いのほか語るべきことが増え、急遽、前後編にしつらえ直すことにしました。
次回完結。「坂の上の船~水平線の彼方にあるもの」後編。久松五勇士の空白の一日に迫ります。
八重山での取材があまり活きていない気がするのは、きっと気のせいであろう・・・。
[資料]
郷土史研究会 会報71号・74号「多良間島から久松五勇士を考える」下地康夫
記念艦「三笠」
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」
坂の上の雲マニアックス
「明治」という国家
[関連記事]
久松海神祭~五勇士の系譜
風景印 -postal marking collection-
※今回のかんちーな企画は「やいまfromみゃーく」として、八重山での現地取材を通して、宮古を見直した自由研究の第二弾です(第一弾はコチラ)。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
1905年5月23日。那覇の帆船乗り、奥浜牛(おくはまうし)が宮古島東方沖を北上するバルチック艦隊と遭遇します。しかし、艦隊は船に掲げられた龍の大漁旗と、独特の長髪をした風貌から中国人と誤認して奥浜を見逃します(西洋人からしたら、中国文化の影響を受けている琉球人と中国人の区別がついたのでしょうか)。
1905年5月26日午前10時頃、宮古島の漲水港(平良港)へ入港した奥浜は、すぐさま駐在所の警察官とともに役場に駆け込んで「艦隊、見ユ」の報告をもたらします。あわてて報告したということは、バルチック艦隊を見失ってからわずか数日で、電信施設もない宮古島の民間レベルまで捜索が周知されていたのでしょうか。思うに奥浜はバルチック艦隊と遭遇して驚いたことを話し、それが大きな問題だったことで発覚したのではないしょうか(季節的には梅雨時ですが、当時の海況については一切不明。奥浜は那覇から宮古に向かっていたのか。大漁旗があったということは漁をしていたのか。船にはひとりしか乗っていなかったのか。風貌から誤認しているからにはそれなりに接近していた?・・・疑問は尽きない)。
宮古島東方沖を通過する艦隊を発見してから、奥浜は漲水港に入るまで3日かかっています。一概に比べられませんが、座間味=那覇間で行われているサパニ帆船レースは、およそ41キロを4時間程度で走破しているので、発見推測位置が正しいとするなら、素人考えではありますがもう少し早く到着していそうな気もします。
第一発見者の奥浜牛の名誉のためには付け加えるとするなら、水平線までの距離は波打際(サバニのような船の上でも同じ)に立った状態での目線(目の位置なので身長より少し低い。150センチと仮定)からだと、およそ4.5キロほどしか見えていません(当然、周囲に陸地がなければ四方は海しか見えない)。たとえば東平安名崎(約20メートル)のような高さのあるところから見たとしても、水平線までの距離はせいぜい16キロくらいしか見えていないので、本当に大海原のど真ん中で40隻もの軍艦に遭遇した奥浜は、たいそう驚いたに違いありません。
話を戻しましょう。この「艦隊、見ユ」の報告を受けた宮古島庁(島司/当時の監督官庁)は大騒ぎとなりますが、当時の宮古島には通信施設がなく、施設のある石垣島へ使いを出すことを決定します。
松原村の垣花善、垣花清、与那覇松、与那覇蒲、そして久貝原の与那覇蒲(同姓同名)の漁師5人が選抜され、130キロ先の石垣島を目指して使命を胸にサバニで漕ぎ出します。
ですが、ここからが問題。たとえばWikipediaの久松五勇士の項目などの標準説では、「石垣島まで15時間かけてサバニを漕ぎ、更に30キロの山道を歩き、5月27日午前4時頃に八重山郵便局に到着し、電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた」とされています。
到着時間から逆算しても、サバニを漕ぐだけでも宮古島を26日の午後1時には宮古島を発たないと、石垣島には到着しません。ましてや到着後に30キロの山歩きをしたのだとしたら、時速4キロとしても単純に7時間半はかかることになります。その時点で奥浜牛が漲水港に到着したとされる26日午前10時を越えてしまいます。ましてや170キロ(地図上の計測では両市役所間は約130キロ)もサバにを漕ぎ続けた後に、不眠不休で30キロを歩くことが出来るとしたら、トライアスリートも真っ青な鉄人に違いありません(しかも、逆算値の時刻は夜の8時頃。ましてや石垣島の地理を熟知しているとも考えにくい)。
記述の信憑性があやふやになってきたところで、郷土史研究の資料をあさってみると、第一のポイントとなりそうな奥浜牛の入港についてはあまり語られてはいませんが、どうやら5月26日午前6時(6時半、7時という説もあり)に久松のウプドゥマーラ浜を出発していることは間違いないようです。第一発見者の報告が発見から3日かかっている点や、前出の発見位置の情報を考えると、奥浜牛がもたらした「艦隊、見ユ」の情報は、もう少し早く宮古島届いていたのではないかと推考したくなります。
もう一点、海軍への電信の着信日時からも推察を加えたいと思いまする。残されている電文には「五月ニ八日午前七時十分 八重山局発。五月ニ八日午前十時 本部着。発信者 宮古島司、同警察署長。受信者 海軍部。本月二十三日午前十時頃、本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、柱、二、三、煙突二、三、船色赤ニ余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、東北ニ進航シツツアリシガ、内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。但シ、船旗ハ不明。右、報告ス」というものであったようで、五勇士が八重山に到着したとされる5月27日の翌日、5月28日午前7時10分に発信されたことになっているのです。当時の電信技術がどの程度のものかは判りませんが、八重山の郵便局から那覇の本局経由で大本営に送られるタイムラグがあったとしても、丸一日もの空白は大きな謎といわざるを得ません。
久松五勇士の物語は「敵艦 見ユ」の報をもたらした郷土の英雄として語られていますが、実際にはその知らせは第一報とはならず、「遅かりし一時間」として後に昭和の初頭に愛国美談として発掘され、時流に乗って戦意高揚の喧伝へと利用されることになります。事象全体に軍事色が強いこともあり、現在の久松五勇士はどちらかといえば勇ましい海の男たちというイメージで地元では取り上げられています。
記録の上でバルチック艦隊を発見した第一報は、信濃丸がもたらした情報が先に大本営へと届いていました。
1905年5月27日午前2時45分。連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が、九州西方海上を北進するバルチック艦隊を発見し、同日4時45分に第一報として「敵艦、見ユ」を打電。先島で五勇士たちが奔走するのとは別のところで、日本海海戦は始まろうとしていました(個人的見解として、この信濃丸による第一報の日時が五勇士の八重山局到達とほぼ同着なのは、単なる偶然なのだろうか・・・)。
先に記した五勇士の発した電文は5月28日午前10時の着電であり、信濃丸の第一報は一日前の27日午前4時45分の発信です。伝達時間を無視した八重山からの発信時を基準にしたとしても、教科書に救国美談として掲載された「遅かりし1時間」を大幅に上回る「遅かりし18時間」となってしまいます。
1905年5月27日午前6時。やがて信濃丸は偵察に駆けつけた巡洋艦「和泉」とバルチック艦隊の追跡を交代。同日午前5時5分には、韓国・釜山に集結していた連合艦隊全艦艇に出撃命令が下り、遂に午後13時39分に対馬沖で日本海海戦の戦端が開かれます。
「黒潮の闘魂」久松五勇士。わずか100年ちょっと前の話ではありますが、記録ではなく記憶に頼らざるを得ないのが残念でなりません。当時の日本のナショナリズムで沖縄を描き、愛国美談として喧伝されたという側面が大きく影響しているようです。時に歴史は都合よく書き直されたりするので、もしかすると純粋な想いから生まれた本質と、メディアによってより美しく描き出された物語が、さまざまに人の記憶の中で交錯して作られたものが史実として歴史として語られているのかもしれません。もはや真実は大海原を一心に漕ぎ続けた、若き日の五人の若者だけしか知らないのかも。
自由研究を進めると思いのほか語るべきことが増え、急遽、前後編にしつらえ直すことにしました。
次回完結。「坂の上の船~水平線の彼方にあるもの」後編。久松五勇士の空白の一日に迫ります。
八重山での取材があまり活きていない気がするのは、きっと気のせいであろう・・・。
[資料]
郷土史研究会 会報71号・74号「多良間島から久松五勇士を考える」下地康夫
記念艦「三笠」
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」
坂の上の雲マニアックス
「明治」という国家
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久松海神祭~五勇士の系譜
風景印 -postal marking collection-
※今回のかんちーな企画は「やいまfromみゃーく」として、八重山での現地取材を通して、宮古を見直した自由研究の第二弾です(第一弾はコチラ)。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(0)
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