2010年02月02日
坂の上の船 -水平線の彼方にあるもの-後編
前回、あまりにも勢いがつき過ぎて、一話では納まりきらなくなってしまった久松五勇士の武勇伝。今回はその完結編です。時間軸ではいよいよ対馬沖で帝国海軍とロシア太平洋艦隊(バルチック艦隊)が日露戦争の雌雄を決する戦いが始まろうとしている頃。使命に燃えて必死に櫂を漕ぎ続ける五人の青年がいました。「黒潮の闘魂」久松五勇士です。
「黒潮の闘魂」。これは久松五勇士を歌った曲のタイトルです。
またまたWikipediaのネタになりますが、久松五勇士の項目にある説明では、「宮古島市久松出身の the Beatle Crusherというバンドが、『黒潮の闘魂~Go-You-Sea~』というタイトルで久松五勇士を歌っている」と書かれています。
しかし、実はこの「黒潮の闘魂」のオリジナルは、奥平潤(おくだいらじゅん)さんの曲なのです(長らく廃盤だったようてですが、近年オリジナルがCDで再発売されているようです)。それをロカビリーバンドのthe Beatle Crusherがアレンジしてカバー曲しているもの。以前、聴いたことがありますが格好よい仕上がりになっています。
『久松五勇士』@lighnesによる披露宴での余興(曲はオリジナル:YouTube)
蛇足(といってはィアーティストには失礼ですが)はさておき今回は完結編ですから、さっさと久松五勇士の空白の一日についての考察に入りましょう。
まずは、日露戦争の終結から29年後の1934(昭和9)年5月19日の「大阪毎日新聞」に掲載された、五勇士の最年少メンバーだった久松出身の与那覇蒲の回顧談から。
1884(明治17)年生まれの与那覇蒲は、取材当時は50歳前後。まだまだ老いるには早い年齢だと思うのですが、どうも怪しい記録になっているようです(現代かなに書き換え、日付を加筆し、読みやすく整えました)。
一、旧四月十四日午前5時頃、久松ウプドマーラ浜出帆
二、旧四月十四日午後8時頃、八重山(石垣島)白保近海着
三、旧四月十五日午前5時頃、白保沖出発
四、旧四月十五日午前9時頃、石垣港着通信局へ書函を届ける
五、旧四月十五日午後2時頃、返書を体して石垣港出帆
六、途中大風雨に遭い、午後8時頃八重山東岸へ漂着
七、旧四月十六日午前5時頃、漂着地出発午後1時頃多良間着
八、旧四月十七日午前5時頃、多良間出発、同10時久松着
九、旧四月十七日午前11時頃、宮古島庁(平良)着
八重山よりの返書入の函を届け賞金を受く
旧暦を新暦に変換すると旧四月十四日は5月18日になるので、記者が旧四月と判断して書いたもので信憑性に疑問が残ると郷土史研究家から指摘されています(それにしてもお役目を果たした五勇士に、賞金が出ていたとは知りませんでした。命がけの報奨はどのくらいだったのか気になります)。
確かに日付の不合は根拠としては厳しいものがありますが、仮に旧四月十四日を出発日の定説である1905年5月26日に当てはめてみると。
1、1905年5月26日午前5時頃、久松ウプドマーラ浜出帆
2、1905年5月26日午後8時頃、八重山(石垣島)白保近海着
3、1905年5月27日午前5時頃、白保沖出発
4、1905年5月27日午前9時頃、石垣港着通信局へ書函を届ける
となり、記憶?記述?が混乱して間違っているとしても、石垣の上陸地点や時刻の差異はあるものの、おおまかな流れや時間的な配分に大きな破綻は見られません(到着地が伊原間ではなく、白保着だった場合の陸路は10キロほど。伊原間は複路の嵐で漂着した場所なのだろうか?)。
1、1905年5月26日午前6時頃(7時の説もあり)、久松ウプドマーラ浜出帆
2、1905年5月26日午後10時30分頃、石垣島・伊原間到着
3、1905年5月27日午後1時頃、疲れ果てて眠っていた
5人のうち2人は陸路で3人は船で、八重山郵便局(電信施設のある場所)へ
4、1905年5月28日午前9時頃、八重山郵便局へ
こちらは五勇士のひとり与那覇蒲の親しい知人・渡真利九一や、妻の与那覇カマドの証言という資料によるものですが、確かに170キロを漕ぎ続けて到着して疲労困憊しているとはいえ、火急の用件で宮古島を飛び出したのにもかかわらず、日の高くなる午後まで寝ていたというのはどうなんでしょうか。5月末といえば梅雨時ですが晴れていれば寝ていられるぼとに日差しはやさしくありません。ましてや不審に思う石垣島の住民はいなかったのでしょうか(この当時から伊原間村は宮良間切の集落としてすでに存在していた)。
辻褄が合っているか合っていないかという根拠の軸として、5月28日午前7時10分に八重山から海軍へ発信された電文の記録を考えると、やっぱりどれもすっきりとしません。
もうひとつはっきりしないのは、着信先として書かれているのが海軍司令部・大本営・連合艦隊など似て非なるあて先の記述があります。海軍=大本営と考えても良いと思いますが(大本営は戦時体制に設置される臨時の機関。東京に設置されていた模様)、連合艦隊への着信だったとすれば、連合艦隊司令官・東郷平八郎の元に集められる情報と考えられ、旗艦「三笠」に乗艦していたので、日本海海戦の直前に艦隊が集結していた韓国の釜山だったのかも知れません。また、当時としては画期的なバルチック艦隊の索敵網を大規模に敷いていたらしいので、信濃丸からの「敵艦、見ユ」の報告(モールス信号による無線通信)が連合艦隊に直接入電されていれば、八重山からの郵便電報よりも早かったかもしれないと考えられます。
そんな中で定説としてあちこちで紹介されている物語は、詳細から時系列をつけてみるとあまりにも酷く、救国美談の賛美華燭にまみれ、情報としては破綻していました(下記は、打電時の時刻を元に無理矢理に逆算してすり合わせています)。
0、1905年5月23日、奥浜牛がバルチック艦隊を発見
(本来の記述は、1905年5月26日午前10時頃、漲水港に到着)
1、1905年5月25日午前5時半頃、久松ウプドマーラ浜出帆
(170キロ、15時間の航海したことから単純逆算)
2、1905年5月26日午後8時半頃、伊原間に着岸
(伊原間から陸路30キロを走破。時速4キロで計算し7時間半と換算。ただし夜間を考慮していない)
3、1905年5月27日午前4時頃、八重山郵便局より「敵艦、見ユ」を打診
さらに五勇士の資料を読み漁る中で驚かせてくれたのは、宮古島の郷土史研究会会報の71号(1991年5月10日発行)、74号(1991年9月12日発行)に下地康夫さんが「多良間島から久松五勇士を考える」と題して発表した久松五勇士多良間島寄港説です。地道な調査から推考した新たな説は、非常に興味深いものとなっています。
多良間寄港説の根拠は、1940(昭和15)年に多良間島に住む安里巖さん(1916年・大正5年生まれ)が、水納島の平良多呂さんから聞き取りした話に始まります。
1、1905年5月26日、久松ウプドマーラ浜を出帆
2、1905年5月27日未明、水納島へ到着。
その日、平良多呂さんの水納サバニに乗りかえて多呂さんの水先案内で出発。
3、1905年5月27日夕刻、多良間島へ到着。
立津春栄宅(ニスバラ家)で夕食。夜、北の浜から石垣島へ出発。
4、1905年5月28日午前、登野城サクラフッツへ到着。
午前7時10分八重山電信局より発信。
この証言を1989(平成元)年にまとめられた、「安里メモ」が根拠とされています。また、立津春公さんからの証言として、「五勇士は八重山へ行く時に立寄りました。夕方頃でした。祖父・立津春栄(1864年・元治元年生まれ)の話では、五勇士は祖母がつくってくれた粟の御飯を食べ、また煙草ももらい夜、航海の為に北の浜へ行き、八重山めざして漕いで行きました」というものがあるそうで「安里メモ」と合致しています(郷土史研究会 会報71号・74号「多良間島から久松五勇士を考える」下地康夫より)。
とはいえ五勇士本人たちから直接に見聞きしたものではなく、いわば関係者からのまた聞きであり、メモの聞き取り(電報の発信時間がなぜか正確)も日露戦争後かなり時間が経過しているので、これぞ完璧といえる証拠とはいい難い気もしますが、多良間から五勇士に関する記録がもし新たに発見されることがあれば、その久松の五人の勇士の真実に近づけるであろうと思います。
そうそう、距離についてもおさらいしておきましょう。中間点とされる多良間島の位置の紹介には、「宮古島との距離は約67キロ、石垣島との距離は約35キロ」とよく出てきますが、宮古島市と石垣市の距離(市役所間)は約130キロあります(久松五勇士の紹介でも170キロだったり約100キロだったりと、距離についての紹介もまちまち)。大圏航路とか等角航路とか地球の丸みを考慮するなど難しいこと抜きにしても、多良間島の紹介文にある距離を足し算しても届きません。これは多良間宮古間の距離は、陸地間が市役所・村役場間や港間の計算とほぼ等しいのに対し、多良間石垣間は最も多良間に近い陸地となる石垣島最北端の平久保崎付近までの距離を記しているからです(多良間村役場石垣市役所間は地図上計算値は66キロ)。
石垣島の五勇士上陸地点とされる伊原間は平久保よりも、やや南に位置するので直線距離にして45キロほどになるので、やや乱暴ですが帆船サバニレースの例で換算しても5時間くらいなので充分のような気もしますが、サバニを使って競漕する昨今のハーリーのレースを見ると、相当に息が合っていないとまっすくに進むこともままなりません。もっとも、五勇士として選抜された若者たちは、漁師としてサバニを漕ぎなれているので問題はないと思われます。
しかし、五勇士の描かれた絵(時代的に写真は現存していない)は、帆船サバニではなく小さなクリ舟として描かれています。漕ぎサバニにはGPSはともかくとして、羅針盤の装備さえもなさそうな感じのサイズです。進路を見定める航海士が同乗しているわけでなく、島明かりもない大海原での夜間航行は星が頼りと考えられるあたりは、いささかも問題とはならにかったのだろうか。
ちなみに1905年5月26日~28日の日の出と日の入を検索してみたところ、おおむね日の出が5時50分、日の入が19時21分頃なので、午後8時の到着であれば残照は期待できそうなので、あながち石垣へ直行した定説でも問題はなさそうな気もします。いずれにせよ、とても物凄い技術と強靭な体力がなければ、この偉業を達成させることは決して困難だったに違いありません。
おわりに。今回のタイトルにもパクらさせていただきましたが、司馬遼太郎原作のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が、2009年末から三年をかけて放送されます。この物語は明治期の日本、主人公の秋山兄弟が深く関わった日露戦争を中心とした話であり、小説の七巻にはバルチック艦隊の発見の報を届けた、久松五勇士のエピソードも語られています。NHKのドラマでもクライマックス直前の第十二話が「敵艦見ユ」と題されており、2011年の放送が予定されています。もしかしたらちらっとでも、宮古島が久松五勇士が出てきそうなタイトルがとても気になります。
『怒涛逆巻く黒潮の しぶきを浴びて 漕いで行く オオー 急げ急げ八重山へ 久松五勇士 男だよ』
(「黒潮の闘魂」奥平潤:作詞)
強い興味をもって久松五勇士を自由研究し、それなりに謎へと迫ってみましたが、多数の郷土史研究家のみなさんの定説、異説、新説からも、さまざまな疑問が溢れており、未だその謎は明らかにはなっていません。これってやっぱりどんなに凄いことをなし遂げても、自慢したり吹聴したりしないのが「男だよ」と、久松の五人の勇士は無言で語っているのかもしれせん。・・・でも、やっぱり知りたい(笑)。
[資料]
郷土史研究会 会報71号・74号「多良間島から久松五勇士を考える」下地康夫
「美談」のゆくえ : 宮古島・「久松五勇士」をめぐる「話」の民俗誌
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」
[関連記事]
坂の上の船 -水平線の彼方にあるもの- 前編
※今回のかんちーな企画は「やいまfromみゃーく」として、八重山での現地取材を通して、宮古を見直した自由研究の第二弾の後編です(第一弾はコチラ、本稿の前編はコチラ)。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
まずは、日露戦争の終結から29年後の1934(昭和9)年5月19日の「大阪毎日新聞」に掲載された、五勇士の最年少メンバーだった久松出身の与那覇蒲の回顧談から。
1884(明治17)年生まれの与那覇蒲は、取材当時は50歳前後。まだまだ老いるには早い年齢だと思うのですが、どうも怪しい記録になっているようです(現代かなに書き換え、日付を加筆し、読みやすく整えました)。
一、旧四月十四日午前5時頃、久松ウプドマーラ浜出帆
二、旧四月十四日午後8時頃、八重山(石垣島)白保近海着
三、旧四月十五日午前5時頃、白保沖出発
四、旧四月十五日午前9時頃、石垣港着通信局へ書函を届ける
五、旧四月十五日午後2時頃、返書を体して石垣港出帆
六、途中大風雨に遭い、午後8時頃八重山東岸へ漂着
七、旧四月十六日午前5時頃、漂着地出発午後1時頃多良間着
八、旧四月十七日午前5時頃、多良間出発、同10時久松着
九、旧四月十七日午前11時頃、宮古島庁(平良)着
八重山よりの返書入の函を届け賞金を受く
旧暦を新暦に変換すると旧四月十四日は5月18日になるので、記者が旧四月と判断して書いたもので信憑性に疑問が残ると郷土史研究家から指摘されています(それにしてもお役目を果たした五勇士に、賞金が出ていたとは知りませんでした。命がけの報奨はどのくらいだったのか気になります)。
確かに日付の不合は根拠としては厳しいものがありますが、仮に旧四月十四日を出発日の定説である1905年5月26日に当てはめてみると。
1、1905年5月26日午前5時頃、久松ウプドマーラ浜出帆
2、1905年5月26日午後8時頃、八重山(石垣島)白保近海着
3、1905年5月27日午前5時頃、白保沖出発
4、1905年5月27日午前9時頃、石垣港着通信局へ書函を届ける
となり、記憶?記述?が混乱して間違っているとしても、石垣の上陸地点や時刻の差異はあるものの、おおまかな流れや時間的な配分に大きな破綻は見られません(到着地が伊原間ではなく、白保着だった場合の陸路は10キロほど。伊原間は複路の嵐で漂着した場所なのだろうか?)。
1、1905年5月26日午前6時頃(7時の説もあり)、久松ウプドマーラ浜出帆
2、1905年5月26日午後10時30分頃、石垣島・伊原間到着
3、1905年5月27日午後1時頃、疲れ果てて眠っていた
5人のうち2人は陸路で3人は船で、八重山郵便局(電信施設のある場所)へ
4、1905年5月28日午前9時頃、八重山郵便局へ
こちらは五勇士のひとり与那覇蒲の親しい知人・渡真利九一や、妻の与那覇カマドの証言という資料によるものですが、確かに170キロを漕ぎ続けて到着して疲労困憊しているとはいえ、火急の用件で宮古島を飛び出したのにもかかわらず、日の高くなる午後まで寝ていたというのはどうなんでしょうか。5月末といえば梅雨時ですが晴れていれば寝ていられるぼとに日差しはやさしくありません。ましてや不審に思う石垣島の住民はいなかったのでしょうか(この当時から伊原間村は宮良間切の集落としてすでに存在していた)。
辻褄が合っているか合っていないかという根拠の軸として、5月28日午前7時10分に八重山から海軍へ発信された電文の記録を考えると、やっぱりどれもすっきりとしません。
もうひとつはっきりしないのは、着信先として書かれているのが海軍司令部・大本営・連合艦隊など似て非なるあて先の記述があります。海軍=大本営と考えても良いと思いますが(大本営は戦時体制に設置される臨時の機関。東京に設置されていた模様)、連合艦隊への着信だったとすれば、連合艦隊司令官・東郷平八郎の元に集められる情報と考えられ、旗艦「三笠」に乗艦していたので、日本海海戦の直前に艦隊が集結していた韓国の釜山だったのかも知れません。また、当時としては画期的なバルチック艦隊の索敵網を大規模に敷いていたらしいので、信濃丸からの「敵艦、見ユ」の報告(モールス信号による無線通信)が連合艦隊に直接入電されていれば、八重山からの郵便電報よりも早かったかもしれないと考えられます。
そんな中で定説としてあちこちで紹介されている物語は、詳細から時系列をつけてみるとあまりにも酷く、救国美談の賛美華燭にまみれ、情報としては破綻していました(下記は、打電時の時刻を元に無理矢理に逆算してすり合わせています)。
0、1905年5月23日、奥浜牛がバルチック艦隊を発見
(本来の記述は、1905年5月26日午前10時頃、漲水港に到着)
1、1905年5月25日午前5時半頃、久松ウプドマーラ浜出帆
(170キロ、15時間の航海したことから単純逆算)
2、1905年5月26日午後8時半頃、伊原間に着岸
(伊原間から陸路30キロを走破。時速4キロで計算し7時間半と換算。ただし夜間を考慮していない)
3、1905年5月27日午前4時頃、八重山郵便局より「敵艦、見ユ」を打診
さらに五勇士の資料を読み漁る中で驚かせてくれたのは、宮古島の郷土史研究会会報の71号(1991年5月10日発行)、74号(1991年9月12日発行)に下地康夫さんが「多良間島から久松五勇士を考える」と題して発表した久松五勇士多良間島寄港説です。地道な調査から推考した新たな説は、非常に興味深いものとなっています。
多良間寄港説の根拠は、1940(昭和15)年に多良間島に住む安里巖さん(1916年・大正5年生まれ)が、水納島の平良多呂さんから聞き取りした話に始まります。
1、1905年5月26日、久松ウプドマーラ浜を出帆
2、1905年5月27日未明、水納島へ到着。
その日、平良多呂さんの水納サバニに乗りかえて多呂さんの水先案内で出発。
3、1905年5月27日夕刻、多良間島へ到着。
立津春栄宅(ニスバラ家)で夕食。夜、北の浜から石垣島へ出発。
4、1905年5月28日午前、登野城サクラフッツへ到着。
午前7時10分八重山電信局より発信。
この証言を1989(平成元)年にまとめられた、「安里メモ」が根拠とされています。また、立津春公さんからの証言として、「五勇士は八重山へ行く時に立寄りました。夕方頃でした。祖父・立津春栄(1864年・元治元年生まれ)の話では、五勇士は祖母がつくってくれた粟の御飯を食べ、また煙草ももらい夜、航海の為に北の浜へ行き、八重山めざして漕いで行きました」というものがあるそうで「安里メモ」と合致しています(郷土史研究会 会報71号・74号「多良間島から久松五勇士を考える」下地康夫より)。
とはいえ五勇士本人たちから直接に見聞きしたものではなく、いわば関係者からのまた聞きであり、メモの聞き取り(電報の発信時間がなぜか正確)も日露戦争後かなり時間が経過しているので、これぞ完璧といえる証拠とはいい難い気もしますが、多良間から五勇士に関する記録がもし新たに発見されることがあれば、その久松の五人の勇士の真実に近づけるであろうと思います。
そうそう、距離についてもおさらいしておきましょう。中間点とされる多良間島の位置の紹介には、「宮古島との距離は約67キロ、石垣島との距離は約35キロ」とよく出てきますが、宮古島市と石垣市の距離(市役所間)は約130キロあります(久松五勇士の紹介でも170キロだったり約100キロだったりと、距離についての紹介もまちまち)。大圏航路とか等角航路とか地球の丸みを考慮するなど難しいこと抜きにしても、多良間島の紹介文にある距離を足し算しても届きません。これは多良間宮古間の距離は、陸地間が市役所・村役場間や港間の計算とほぼ等しいのに対し、多良間石垣間は最も多良間に近い陸地となる石垣島最北端の平久保崎付近までの距離を記しているからです(多良間村役場石垣市役所間は地図上計算値は66キロ)。
石垣島の五勇士上陸地点とされる伊原間は平久保よりも、やや南に位置するので直線距離にして45キロほどになるので、やや乱暴ですが帆船サバニレースの例で換算しても5時間くらいなので充分のような気もしますが、サバニを使って競漕する昨今のハーリーのレースを見ると、相当に息が合っていないとまっすくに進むこともままなりません。もっとも、五勇士として選抜された若者たちは、漁師としてサバニを漕ぎなれているので問題はないと思われます。
しかし、五勇士の描かれた絵(時代的に写真は現存していない)は、帆船サバニではなく小さなクリ舟として描かれています。漕ぎサバニにはGPSはともかくとして、羅針盤の装備さえもなさそうな感じのサイズです。進路を見定める航海士が同乗しているわけでなく、島明かりもない大海原での夜間航行は星が頼りと考えられるあたりは、いささかも問題とはならにかったのだろうか。
ちなみに1905年5月26日~28日の日の出と日の入を検索してみたところ、おおむね日の出が5時50分、日の入が19時21分頃なので、午後8時の到着であれば残照は期待できそうなので、あながち石垣へ直行した定説でも問題はなさそうな気もします。いずれにせよ、とても物凄い技術と強靭な体力がなければ、この偉業を達成させることは決して困難だったに違いありません。
おわりに。今回のタイトルにもパクらさせていただきましたが、司馬遼太郎原作のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が、2009年末から三年をかけて放送されます。この物語は明治期の日本、主人公の秋山兄弟が深く関わった日露戦争を中心とした話であり、小説の七巻にはバルチック艦隊の発見の報を届けた、久松五勇士のエピソードも語られています。NHKのドラマでもクライマックス直前の第十二話が「敵艦見ユ」と題されており、2011年の放送が予定されています。もしかしたらちらっとでも、宮古島が久松五勇士が出てきそうなタイトルがとても気になります。
『怒涛逆巻く黒潮の しぶきを浴びて 漕いで行く オオー 急げ急げ八重山へ 久松五勇士 男だよ』
(「黒潮の闘魂」奥平潤:作詞)
強い興味をもって久松五勇士を自由研究し、それなりに謎へと迫ってみましたが、多数の郷土史研究家のみなさんの定説、異説、新説からも、さまざまな疑問が溢れており、未だその謎は明らかにはなっていません。これってやっぱりどんなに凄いことをなし遂げても、自慢したり吹聴したりしないのが「男だよ」と、久松の五人の勇士は無言で語っているのかもしれせん。・・・でも、やっぱり知りたい(笑)。
[資料]
郷土史研究会 会報71号・74号「多良間島から久松五勇士を考える」下地康夫
「美談」のゆくえ : 宮古島・「久松五勇士」をめぐる「話」の民俗誌
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」
[関連記事]
坂の上の船 -水平線の彼方にあるもの- 前編
※今回のかんちーな企画は「やいまfromみゃーく」として、八重山での現地取材を通して、宮古を見直した自由研究の第二弾の後編です(第一弾はコチラ、本稿の前編はコチラ)。
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(2)
│かんちーな企画
この記事へのコメント
一度訪れてみたい場所です。
Posted by 見直し at 2010年07月20日 10:20
見直しサン>
コメントありがとうこざ゛います。
ぜひ、訪れて真相を解明してみませんか(笑)
コメントありがとうこざ゛います。
ぜひ、訪れて真相を解明してみませんか(笑)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 2010年07月22日 13:34