2010年02月19日
ロード トゥ ヘコテン ~下川凹天への道~ 最終話
明治25年、宮古島の地にひとりの男が生まれた。男は一徹に漫画を愛し続け、初の国産アニメを製作する偉業も成し遂げます。男の名は漫画家・下川凹天。そんな彼に魅せられてしまった宮古島生まれの女がいた。凹天と宮古島を結ぶ道しるべをたどり続け、『宮古生まれの奇才 漫画家・下川凹天』展の開催へとこぎつけます。彼女の名は日曜研究家・幸地郁乃。渾身の物語もいよいよここに完結。知られざる奇才、凹天が今よみがえる!。
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2008年秋の関東での調査を終えて宮古に戻ると、下川凹天企画展の話は予想以上に、とんとん拍子に進みました。地元の生涯学習フェスティバルに、凹天研究の第一人者である沖縄キリスト教学院大学(通称キリ学)の大城冝武(おおしろ・よしたけ)教授を招いて講話をしていただいたり、地元新聞で記事にしてもらったりと、じわじわと凹天さんの知名度アップに向けて動きました。そして、博物館からは約1年後の開催を目指して予算をとってみるとの返事をもらったのです!。
凹天最晩年の弟子であった千葉県野田市在住の漫画家・出野元山(いでの・がんざん)さんは、わざわざ宮古島にも足を運んでくれたうえ、月に一度は電話やハガキなどで近況を確認し、私にエールを送ってくれていました。「あせらずにおやんなさいよ。みんなで凹天さんを大事にしていこうじゃないですか」と、独特の軽妙な話し方で電話の向こうから励まされるたびに、心強く感じていたのでした。
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2010年01月12日
ロード トゥ ヘコテン ~下川凹天への道~ 第三話
2009年11月。宮古に生まれた奇才、漫画家・下川凹天の企画展が開催された。
遡ることおよそ一年前、凹天の軌跡を巡る旅へと導かれた、日曜研究家・幸地郁乃。慣れない土地での2泊3日の強行軍は熾烈を極める。宮古島と凹天を結ぶ赤い糸を手繰りよせた彼女は、いったいそこでなにを見たのだろうか。いよいよ企画展の開催へ向けた熱意が燃え上がる、『ロード トゥ ヘコテン』第三話。今回もサービスサービス!?。
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2008年9月、下川凹天の足跡を訪ねる旅の2日目。きょうは東京在住の旧友と一緒に、埼玉と千葉を回ります。
早朝、都内を出発。大宮公園駅で降り、さいたま市立漫画会館へ。日本の近代漫画を確立したと言われる北澤楽天の住居跡を改装した記念館です。
幼い時に父を亡くして宮古島を離れ、鹿児島暮らしを経て東京の伯父に引き取られた下川貞矩少年は、1906(明治39)年、15歳で楽天の内弟子第1号となり、住み込みで漫画を学びました。師匠「楽天」の1文字をとって「凹天」というペンネームを授かり、そこから彼の漫画家人生がスタートしたのです。
常設展示コーナーには楽天の作品や写真が豊富で、当時の漫画界のようすが分かります。漫画家仲間と一緒に収まった写真を見つけました。愛嬌たっぷりに笑う楽天の隣で、凹天はちょっぴりニヒルな、照れたような笑みを浮かべています。案外恥ずかしがり屋だったのかもしれません。
漫画会館の周辺は「盆栽町」と呼ばれ、その昔、盆栽や造園業者が多数住んでいたことに由来する地名だそう。家々の植栽が綺麗に苅り揃えられ、鳥のさえずりや虫の声も聴こえる、美しい住宅街でした。 続きを読む
2009年12月15日
ロード トゥ ヘコテン ~下川凹天への道~ 第二話
これは2009年11月4日(水)~12月6日(日)に宮古島市総合博物館で行われた、第12回企画展『宮古生まれの奇才 漫画家・下川凹天』を開催するに至るまで、熱くたぎる“凹サマ”への想いを胸に秘め、東奔西走した噂の日曜研究家・幸地郁乃が、宮古島と下川凹天を繋ぐ道をたどる物語である(短期集中連載 第二話)。
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2008年9月初旬の昼過ぎ、私は羽田空港に降り立ち、京急線乗り場を皮切りに電車を乗り継いでいました。下川凹天調査のための、2泊3日の旅の始まりです。朝、東京直行便で宮古島を出る前に受け取った大きな切り花を抱え、資料の入ったカートバッグを引きずりながら先を急ぎました。何しろ、事前に調べ上げた行き先は2日間で6件、神奈川・東京・埼玉・千葉の1都3県にまたがるのですから、ダッシュ必至です。
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2009年10月30日
ロード トゥ ヘコテン ~宮古生まれの漫画家、下川凹天への道~
宮古島から発信する「あんちーかんちー」に、噂の日曜研究家・幸地郁乃が初登場!。内に秘めた熱くたぎる“凹サマ”への熱情を短期集中連載で語ります。
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宮古島もめっきり秋の風情です。今秋のお出かけ計画に、ぜひ入れていただきたいのが、11月4日から約1カ月間、宮古島市総合博物館で開かれる企画展 「宮古生まれの奇才 漫画家・下川凹天」。彼の作品や人となりは地元ではまだまだ知られていませんが、日本の漫画・アニメ界で活躍したとてもユニークな人物なのです。この企画展の言いだしっぺでもある筆者が、なぜに凹天のとりことなったか、その思いの丈を、この連載で勝手に熱く綴らせていただきます。
下川凹天(しもかわ へこてん 1892年~1973年)という漫画家の存在を初めて知ったのは、2008年7月のこと。宮古島出身のアーティストにはどんな人がいるのかな、と軽い気持ちでネット検索しているうち、あるサイトで彼の名を見つけたのでした。
「ヘコテン? 宮古ぬ、んざぬ人がらやー?」
(上記注:方言で「宮古の何処の人なんだ」という意味ですが・・・。す、すみません、方言がほとんどできない駄目ネイティブなので、無理に使用するのは今後やめときます)
・・・と調べていくうちに、どうやらこの人物が日本で初めてアニメーションを作った人らしいということが分かり、俄然興味がわいたのです。
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