2009年09月08日
「烽火をあげろ!」 遠見台探訪
鎖国政策を行っていた江戸幕府は、異国船の接近を監視するため1638年に長崎港に遠見台を設置したのが始まりとされ、当時すでに薩摩の支配下にあった首里王府にも、遠見台の建設が命じられ各地に作られました(1644年頃)。海を行く船を監視するために作られただけに、遠見台は眺望の良いところにあるので、行けばきっと素敵なパノラマが広がっているはず!っということで、2007年に国指定史跡に指定された宮古の五つの遠見台に登ってみました。久々のマニアック紀行[宮古島逍遥]のスタートです。
時は大航海時代末期。列強各国の船が琉球に頻繁に来航しており、遠見台は近海を航行する異国船を発見すると、昼は烽火(のろし)をあげ、夜は松明を灯して蔵元へ通報する当時の最新の通信ネッワーク施設でした。また、宮古島近海は八重干瀬での座礁や、時化などによって漂着することもあり、船舶や乗組員の救助を行い水や食料などを与えて、速やかに出航させるように対処する方針がとられていました。歴史書などの記録によると、かなりの数の異国船の漂着や座礁救助した記録があります。時代としては下ってしまいますが、「思えば宮古」で題材となっているロベルトソン号の博愛物語(1873年)や、八重干瀬に座礁沈没したプロビデンス号(1797年)などの来航も、その一部といえます。
遠見台で船を発見すると蔵元(島を統治する役場的な王府の出先機関)へ通報するのですが、宮古の蔵元は漲水御嶽の向かいにありました。ここへ烽火や松明を使って伝達するといわれていいますが、地域によっては伝令が伝えたりもしていたようです。国の史跡として指定されてた遠見台は、北から池間、狩俣、島尻、来間、砂川の5ヶ所(この他、多良間村に3ヶ所、八重山に10ヶ所が指定されています)がありますが、現在では観光資源としてはあまり顧みられておらず、マイナーな存在で意外と知られていないのが残念です。それを掘り起こす意味も込めて、宮古の五つの遠見台を訪れてみました。
【来間遠見台】 地図はこちら
最初は来間島から。来間島で眺望のいい場所として誰もが挙げるのは、やはり竜宮展望台ではないでしょうか。観光地としても有名なので訪れた方も多いはずです。展望台からの眺めは海を隔てて目の前に与那覇前浜を一望し、宮古島のパノラマが広がっています。来間遠見台はこの竜宮展望台のすぐ南隣にあり、今でこそ竜宮展望台の方が高さもあって、より眺望が開けていますが、来間の遠見台は島で標高が一番高い、島の北東側に建てられているので、西側に広がる集落とサトウキビ畑を跳び越して、その先の海まで見通すことが出来ます。
この来間遠見台はその作りもなかなか美しく、木漏れ日が射す石畳の道の先にあり、地形を利用した右巻きの石組みの階段を登って頂上に立つことが出来ます。八重山地方に見られる高さのある渦巻き状の遠見台に比べると、規模はあまり大きくはありませんが、地形的にそれほど大きなものが必要なかったことは、ここからの眺望を見ればよく判ります。遥か遠くではありますが、遠見台に登れば、蔵元のある平良の街並みすら望めるのですから。
【池間遠見台】 地図はこちら
続いては宮古島の北、池間島の遠見台へと行ってみました。遠見台の場所は島の集落よりさらに南にあり、ミャークヅツが行われるムトゥの近くにあります。前ぬ屋ムトゥへの入口からオハルズ御嶽を包み込む、ナナムイ(七つの森)の外れあたりに位置し、低い石垣が作られた森の中の小道を奥へと進んでゆきます。しばらく進むとやや開けたところが現われました。眺めて見ると、なにかの遺構のようにも御嶽のようにもみえます。いずれにせよナナムイの聖域に隣接した場所なので、きっとなにかがあるのでしょう。ここから池間遠見台へと登ります。石造りの階段を登ると、森の上に抜けて一気に眺望が広がました。
池間漁港を見下ろし、目の前にはどーんと池間大橋が大きく横たわっています。その奥には大神島が鎮座して、狩俣の湾を挟んで西平安名の風車が間近に見えます。こんな素敵な眺望が広がっていることはあまり知られていません。目を凝らせば遠くに野原岳らしいシルエットも見えます(手前にあるレーダードームは野田の航空局の物)。ここからなら充分に、蔵元のある平良へも烽火や松明で通信することが出来ます。
遠見台の漁港側は急峻な崖地になっていますが、遠見台の脇から漁港へと降りれる急な坂道があり、遠見台への裏口的な抜け道になっています。ちょっとだけ整備すれば、素晴らしい観光資源になるんじゃないかなぁ。でも、隣は聖地ナナムイだし、直球ストレートな整備が得意な宮古の業者では、そう簡単にはいかないのかな。
【狩俣遠見台】 地図はこちら
橋を渡って今度は狩俣の遠見台に向かいます。遠見台は集落の背後に広がる森の奥にあり、民家の脇から登ってゆきます。とはいえ、ここには水道局のタンクが設置されているので、遠見台までの登り口は綺麗に整備されており簡単に登ることが出来ますが、いにしえの趣きという点ではいまひとつです。頂上部分は30メートル近い断崖の上にあり、正面に大神島を望む大海原の絶景が広がっています。
明治末期の頃までは遠見番屋も遺されていたそうで、日夜、遠見番が海上監視を行い、船影を発見すると集落にある村番所(ブンミャー)へ知らせ、そこから伝令を漲水の蔵元へと走らせて知らていました。狩俣遠見台に隣接する古い森は、貴重な「狩俣の植物群」として市の天然記念物に指定されており、そこは神女たちが御嶽にこもる祭祀「ウヤーン」が行われていた森でもあります。
【島尻遠見台】 地図はこちら
パーントゥの里として知られる島尻の遠見台にやってきました。遠見台は島尻集落の北東部に隣接した丘の上にあります。ここの遠見台は崖を削って丘の上に登る階段が作られており、それを登った先に石垣で組まれたテラスのような遠見台があります。遠見台からは島尻の元島(古い集落遺跡)と、その向こうに大神島が見渡せます。
手前にわずかでに農地が広がっているので、なんとなくこれまでの遠見台に比べて標高が低い印象があったので、調べてみるとやはり島尻遠見台の標高は20メートルほどで、来間や狩俣の半分程でしかありませんでした。しかし、池間は10メートルちょっとなのにとても高く感じたのは、そこに見える風景のせいかもしれません。
遠見台を語る上で忘れてはいけないのは、島尻の港から船でゆく大神島の遠見台があります。残念ながら大神遠見台は国の指定は受けることもなく、合併前の平良市の整備によって階段が作られ、単なる展望台に成り下がってしまいましたが、ここからの眺めは宮古北部地域の最高峰(74.7メートル)なので格別です。
【砂川遠見台】 地図はこちら
さて、いよいよ最後のひとつ「トゥンカイフツイス」とも呼ばれている、砂川(ウルカ)遠見台へ。上比屋(ウイピャー)の森の南端付近にあるということは判っていましたが、それ以上の詳細な位置はいまひとつはっきりないままやって来たので、しばらく上比屋山遺跡の周辺をウロウロしてみました(市で設置した巨大な案内板が絶対にあるはずなので、その姿を求めていた)。しかし、それらしきものや看板も発見できず、現地の人から聞き込みに集落に戻るも、日差しの厳しい真っ昼間に人の気配などはなく、砂川交差点にある「宮島商店」に飛び込みで、レジをしていたオジサマに砂川遠見台の所在を訪ねてみた。
すると最初は、「砂川遠見台?そんなのウルカにないよ」といっていたが、「遺跡の展望台みたいな奴」と補足すると、「ウイピャームトゥの東の方にあったなぁ。道があるかねぇ、草ボーボーじゃないか?」と、あやふやでとても大雑把な位置を教えてくれた。
けど、それで充分でした。以前、ウイピャームトゥまでは登っており、その時にそれっぽい方向に脇道があることを確認していたのと、上比屋の森の崖の端まで出れば、海が見える位置になるはずと目星が付いたので。
再び、多良川酒造の脇から上比屋の森へと入り込み、下草が生い茂った山道を登ってウイピャームトゥを目指します。途中、アダンが道を塞いでいたり、足元が怪しい場所もありましたが、ひと登りして「ウイウスウイピャー」に到着しました。この石垣のある小屋はウイピャームトゥのみっつあるムトゥのひとつで、中には御嶽があり祭祀に使われる重要な文化財です。そして森全体が上比屋山遺跡という古い集落跡が遺跡にもなっている場所でもあります。
この「ウイウスウイピャー」の前にある脇道を下ってゆくと、すぐに同じような小屋が現われました。今度は「クスウイピャー」というムトゥで、さらに森の中を進むと三つ目の「マイウイピャー」ムトゥが見えてきました。さすがにうっそうとした森の中に忽然と小屋が建っているのには、ちょっとドキドキさせられます。
さてさて、ここからが腕の見せ所。ムトゥの先にまだ道は続いています。ただ少し気になるのは先ほどからどんどん下っていること。けれど地形的に最後は崖になるはずなので、ともかく進んでみることにします。すると急に森が開け、目の前に綺麗な轍のある農道に躍り出ました。轍の草の生え具合からみても、そこそこ人がやって来ている感じです。別ルートで車が通れる道があるとは・・・ちょっとがっくりさせられましたが、周辺の検索をしてあったので、この農道がどこに繋がっているかは、おおよその想像がつきました(次は車で来れるかも?)。
農道を南に向かって下ってゆくと、農道の終点についに発見しました。どーんと鎮座する市の設置した解説石を(笑…この道から運んだので上比屋の森の入口にはなかったと理解)。その石の裏手にかなり崩壊の進んだ砂川遠見台が草に埋もれていました。解説によると石組みは7x4.5メートルの方形で、一部に1メートルほどの壁(テラス状の囲い)があったようです。残念ながら遠見台からの眺望は、人の手が入らなくなって久しいせいか、木々が生い茂っていて開けていませんが、それでも太平洋を望むことが出来ました。補修も復元もなされていないので想像するしかありませんが、周辺には障害物もない標高も70メートルの遠見台ですから、きっと迫力ある水平線のパノラマが見れたのではないかと思います(位置的には上比屋ロードパークに近いので眺望の雰囲気は似ていると思うけど、見れる高さが圧倒的に違う)。またひとつ南国の旺盛な自然に埋もれた観光資源の元を見つけちゃったかも。
今回のマニア企画[宮古島逍遥]は、国指定の史跡に指定された島内五つの遠見台からの眺めを見くべてみました。周辺の環境の変化から、昔の人と同じ風景とまではいきませんでしたが、何十年、何百年と眺められてきた遠見台からの風景を見ることで、気持ちのタイムスリップが出来たような気もしました。もっとも、その時代に遠見台から海を見いてた人々は、仕事、使役として見ていたことを考えると苦労が偲ばれます。
ところで、この監視ネットワークはどのくらい機能していたのでしょね。遠見台<村番所<蔵元<首里王府<薩摩<江戸幕府という上意下達で整備されたものですが、本島や近海の島々では、お互いの島影が見えているので、烽火をあげれば島伝いに伝達は可能だったようですが、さすがに宮古から本島(近い久米島までも)は見えませんから、この間は船だったのでしょうか(どうにか宮古→八重山は多良間を中継すると繋がる)。
若干の宿題も残りましたが、展望台がいくつも造られていることを考えると、遠見台に限らず人はやっぱり高いところが好きなようです(高所恐怖症が出るような意味ではなく)。今度はそんな現代の遠見台でも登ってみようかな。
※遠見台は、火番盛とも呼ばれていますが、記事中は遠見台で統一しました。
かんちーな企画 [宮古島逍遥]
【逍遥】(しょうよう) 1.そこここをぶらぶらと歩くこと、散歩。2.心を俗世間の外に遊ばせること。悠々自適して楽しむこと。
「あんちー かんちー」のタイトルをそのまま現した企画タイトルで、枠に囚われず思いのままに宮古島を語ってゆく、ある意味無謀な企画です(不定期掲載)。
[宮古島逍遥] バックナンバーはコチラ
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
最初は来間島から。来間島で眺望のいい場所として誰もが挙げるのは、やはり竜宮展望台ではないでしょうか。観光地としても有名なので訪れた方も多いはずです。展望台からの眺めは海を隔てて目の前に与那覇前浜を一望し、宮古島のパノラマが広がっています。来間遠見台はこの竜宮展望台のすぐ南隣にあり、今でこそ竜宮展望台の方が高さもあって、より眺望が開けていますが、来間の遠見台は島で標高が一番高い、島の北東側に建てられているので、西側に広がる集落とサトウキビ畑を跳び越して、その先の海まで見通すことが出来ます。
この来間遠見台はその作りもなかなか美しく、木漏れ日が射す石畳の道の先にあり、地形を利用した右巻きの石組みの階段を登って頂上に立つことが出来ます。八重山地方に見られる高さのある渦巻き状の遠見台に比べると、規模はあまり大きくはありませんが、地形的にそれほど大きなものが必要なかったことは、ここからの眺望を見ればよく判ります。遥か遠くではありますが、遠見台に登れば、蔵元のある平良の街並みすら望めるのですから。
【池間遠見台】 地図はこちら
続いては宮古島の北、池間島の遠見台へと行ってみました。遠見台の場所は島の集落よりさらに南にあり、ミャークヅツが行われるムトゥの近くにあります。前ぬ屋ムトゥへの入口からオハルズ御嶽を包み込む、ナナムイ(七つの森)の外れあたりに位置し、低い石垣が作られた森の中の小道を奥へと進んでゆきます。しばらく進むとやや開けたところが現われました。眺めて見ると、なにかの遺構のようにも御嶽のようにもみえます。いずれにせよナナムイの聖域に隣接した場所なので、きっとなにかがあるのでしょう。ここから池間遠見台へと登ります。石造りの階段を登ると、森の上に抜けて一気に眺望が広がました。
池間漁港を見下ろし、目の前にはどーんと池間大橋が大きく横たわっています。その奥には大神島が鎮座して、狩俣の湾を挟んで西平安名の風車が間近に見えます。こんな素敵な眺望が広がっていることはあまり知られていません。目を凝らせば遠くに野原岳らしいシルエットも見えます(手前にあるレーダードームは野田の航空局の物)。ここからなら充分に、蔵元のある平良へも烽火や松明で通信することが出来ます。
遠見台の漁港側は急峻な崖地になっていますが、遠見台の脇から漁港へと降りれる急な坂道があり、遠見台への裏口的な抜け道になっています。ちょっとだけ整備すれば、素晴らしい観光資源になるんじゃないかなぁ。でも、隣は聖地ナナムイだし、直球ストレートな整備が得意な宮古の業者では、そう簡単にはいかないのかな。
【狩俣遠見台】 地図はこちら
橋を渡って今度は狩俣の遠見台に向かいます。遠見台は集落の背後に広がる森の奥にあり、民家の脇から登ってゆきます。とはいえ、ここには水道局のタンクが設置されているので、遠見台までの登り口は綺麗に整備されており簡単に登ることが出来ますが、いにしえの趣きという点ではいまひとつです。頂上部分は30メートル近い断崖の上にあり、正面に大神島を望む大海原の絶景が広がっています。
明治末期の頃までは遠見番屋も遺されていたそうで、日夜、遠見番が海上監視を行い、船影を発見すると集落にある村番所(ブンミャー)へ知らせ、そこから伝令を漲水の蔵元へと走らせて知らていました。狩俣遠見台に隣接する古い森は、貴重な「狩俣の植物群」として市の天然記念物に指定されており、そこは神女たちが御嶽にこもる祭祀「ウヤーン」が行われていた森でもあります。
【島尻遠見台】 地図はこちら
パーントゥの里として知られる島尻の遠見台にやってきました。遠見台は島尻集落の北東部に隣接した丘の上にあります。ここの遠見台は崖を削って丘の上に登る階段が作られており、それを登った先に石垣で組まれたテラスのような遠見台があります。遠見台からは島尻の元島(古い集落遺跡)と、その向こうに大神島が見渡せます。
手前にわずかでに農地が広がっているので、なんとなくこれまでの遠見台に比べて標高が低い印象があったので、調べてみるとやはり島尻遠見台の標高は20メートルほどで、来間や狩俣の半分程でしかありませんでした。しかし、池間は10メートルちょっとなのにとても高く感じたのは、そこに見える風景のせいかもしれません。
遠見台を語る上で忘れてはいけないのは、島尻の港から船でゆく大神島の遠見台があります。残念ながら大神遠見台は国の指定は受けることもなく、合併前の平良市の整備によって階段が作られ、単なる展望台に成り下がってしまいましたが、ここからの眺めは宮古北部地域の最高峰(74.7メートル)なので格別です。
【砂川遠見台】 地図はこちら
さて、いよいよ最後のひとつ「トゥンカイフツイス」とも呼ばれている、砂川(ウルカ)遠見台へ。上比屋(ウイピャー)の森の南端付近にあるということは判っていましたが、それ以上の詳細な位置はいまひとつはっきりないままやって来たので、しばらく上比屋山遺跡の周辺をウロウロしてみました(市で設置した巨大な案内板が絶対にあるはずなので、その姿を求めていた)。しかし、それらしきものや看板も発見できず、現地の人から聞き込みに集落に戻るも、日差しの厳しい真っ昼間に人の気配などはなく、砂川交差点にある「宮島商店」に飛び込みで、レジをしていたオジサマに砂川遠見台の所在を訪ねてみた。
すると最初は、「砂川遠見台?そんなのウルカにないよ」といっていたが、「遺跡の展望台みたいな奴」と補足すると、「ウイピャームトゥの東の方にあったなぁ。道があるかねぇ、草ボーボーじゃないか?」と、あやふやでとても大雑把な位置を教えてくれた。
けど、それで充分でした。以前、ウイピャームトゥまでは登っており、その時にそれっぽい方向に脇道があることを確認していたのと、上比屋の森の崖の端まで出れば、海が見える位置になるはずと目星が付いたので。
再び、多良川酒造の脇から上比屋の森へと入り込み、下草が生い茂った山道を登ってウイピャームトゥを目指します。途中、アダンが道を塞いでいたり、足元が怪しい場所もありましたが、ひと登りして「ウイウスウイピャー」に到着しました。この石垣のある小屋はウイピャームトゥのみっつあるムトゥのひとつで、中には御嶽があり祭祀に使われる重要な文化財です。そして森全体が上比屋山遺跡という古い集落跡が遺跡にもなっている場所でもあります。
この「ウイウスウイピャー」の前にある脇道を下ってゆくと、すぐに同じような小屋が現われました。今度は「クスウイピャー」というムトゥで、さらに森の中を進むと三つ目の「マイウイピャー」ムトゥが見えてきました。さすがにうっそうとした森の中に忽然と小屋が建っているのには、ちょっとドキドキさせられます。
さてさて、ここからが腕の見せ所。ムトゥの先にまだ道は続いています。ただ少し気になるのは先ほどからどんどん下っていること。けれど地形的に最後は崖になるはずなので、ともかく進んでみることにします。すると急に森が開け、目の前に綺麗な轍のある農道に躍り出ました。轍の草の生え具合からみても、そこそこ人がやって来ている感じです。別ルートで車が通れる道があるとは・・・ちょっとがっくりさせられましたが、周辺の検索をしてあったので、この農道がどこに繋がっているかは、おおよその想像がつきました(次は車で来れるかも?)。
農道を南に向かって下ってゆくと、農道の終点についに発見しました。どーんと鎮座する市の設置した解説石を(笑…この道から運んだので上比屋の森の入口にはなかったと理解)。その石の裏手にかなり崩壊の進んだ砂川遠見台が草に埋もれていました。解説によると石組みは7x4.5メートルの方形で、一部に1メートルほどの壁(テラス状の囲い)があったようです。残念ながら遠見台からの眺望は、人の手が入らなくなって久しいせいか、木々が生い茂っていて開けていませんが、それでも太平洋を望むことが出来ました。補修も復元もなされていないので想像するしかありませんが、周辺には障害物もない標高も70メートルの遠見台ですから、きっと迫力ある水平線のパノラマが見れたのではないかと思います(位置的には上比屋ロードパークに近いので眺望の雰囲気は似ていると思うけど、見れる高さが圧倒的に違う)。またひとつ南国の旺盛な自然に埋もれた観光資源の元を見つけちゃったかも。
※ ※ ※
今回のマニア企画[宮古島逍遥]は、国指定の史跡に指定された島内五つの遠見台からの眺めを見くべてみました。周辺の環境の変化から、昔の人と同じ風景とまではいきませんでしたが、何十年、何百年と眺められてきた遠見台からの風景を見ることで、気持ちのタイムスリップが出来たような気もしました。もっとも、その時代に遠見台から海を見いてた人々は、仕事、使役として見ていたことを考えると苦労が偲ばれます。
ところで、この監視ネットワークはどのくらい機能していたのでしょね。遠見台<村番所<蔵元<首里王府<薩摩<江戸幕府という上意下達で整備されたものですが、本島や近海の島々では、お互いの島影が見えているので、烽火をあげれば島伝いに伝達は可能だったようですが、さすがに宮古から本島(近い久米島までも)は見えませんから、この間は船だったのでしょうか(どうにか宮古→八重山は多良間を中継すると繋がる)。
若干の宿題も残りましたが、展望台がいくつも造られていることを考えると、遠見台に限らず人はやっぱり高いところが好きなようです(高所恐怖症が出るような意味ではなく)。今度はそんな現代の遠見台でも登ってみようかな。
※遠見台は、火番盛とも呼ばれていますが、記事中は遠見台で統一しました。
かんちーな企画 [宮古島逍遥]
【逍遥】(しょうよう) 1.そこここをぶらぶらと歩くこと、散歩。2.心を俗世間の外に遊ばせること。悠々自適して楽しむこと。
「あんちー かんちー」のタイトルをそのまま現した企画タイトルで、枠に囚われず思いのままに宮古島を語ってゆく、ある意味無謀な企画です(不定期掲載)。
[宮古島逍遥] バックナンバーはコチラ
(文+写真+編集:モリヤダイスケ)
Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(0)
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