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2010年01月15日

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號
137年前、嵐の海を抗って生き延びた男が残した日記。そこには彼にとっては異郷の地である宮古島の情景が、激しい喜怒哀楽と鋭い観察眼をもって記されていました。137年後、その熱すぎる男の日記を読み解き、垣間見える己がルーツに一喜一憂する、さいが族酋長・宮国優子。ふたつ情熱が化学反応して奔放に進む自由研究、『思えば宮古~あららがま パラダイス コラム~』 第拾弐號の始まりです。

※     ※     ※

『博愛は美談 ~日記の中のエドゥアルド~』 巻の四

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。皆様、今年も去年に引き続き、妄想絵巻におつきあい頂きまして心より感謝致します。

この長編自由研究が思いがけず年をこえてしまいました。
当初はここまでのめり込むとは予想だにしていませんでしたが、時を経て、エドが私に教えてくれることの多さに舞い上がっております。
いつも目の前の事しか考えられない私が、エドの物語のおかげで、当時の宮古の人達に思いをはせ「ご先祖」さまに感謝できるようになったのが、大きな収穫です。たんでぃがーたんでぃ(ありがたや)。こんな私ですが、今年も何卒よろしくお願いします。いきなりですが、今回は救助された日の7月10日から始まります。
宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號

当たり前の事だが、エドはその日、ひどく緊張したのだと思う。救助されながらも「はたして本当に助けてくれるのか?」と疑いを隠せなかった・・・と思う。それは、前回の堡礁のシーンで怒り心頭というのもあっただろうし。そのうえ時代も時代だ。当時は流れ着いた人たちから金品を奪うなどはよくあることだったろう。

私自身も数年前、海賊復活のニュースを見て、海上にルールなし、証拠なし、を実感しました。逃げ場所が確保されないと人間はどこまでも猛々しくなれるものかもしれません。農耕民族とはわけが違います。

エドの7月10日の日記は非常に長く、その後13日まで書かれなかったことをみると、時間軸が多少ずれていることがわかります。船の上では航海日誌の延長で書いていたものが、陸に足を踏み入れた途端、弛緩してしまったんだろうなぁ。

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號いや、それにしても、エドの観察眼は素晴らしい。この頃の宮古の様子がつぶさに書いてある。そして、西側の階級社会から来たエドは、すぐにこの孤島の階級差にも気付いている。それが、生き抜く知恵と言えば知恵。誰に何を要求すれば一番通りが早いか、すぐに察知しようとするエド。いや、こうじゃないと船長はやっていられないかも。しかし、もう船はないのに。エド、気を取り直して観察眼をふるうのでありました。好奇心満載の彼です。

海岸線の砂浜に向かってゆくと、遠く離れたところからも、衣服をまとい、日よけの傘をふっている人々が集まっているところが見えた。このような文明のしるしによっても我々の期待は高まった。
「ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」


どうしてエドがそう言ったかは堡礁をよけて助けてくれた人達があまりに軽装だったからのようだ。別のところでこう書いてある。

我々を船から救助した人は、中国のクーリーなどと同様に、特に低い階層の者たちであり、肌の色がより黒く、衣類もほとんど着ていないことで区別できる。彼らは他の島民に這ってのみ近づいてゆくことができ、上位の人から命令されるまではそのまま床に頭をつけたままである。これは大体ひどく嫌な感じを受ける光景である。(同書)

その後、つらつらと書いているのだが、どうもエドはいわゆる宮古の士族らに謁見させられている。なので、救助した平民の様子は非常に卑屈に写ったのではないかと思う。あの島にお殿様はいないにしても、士族はお殿様のようなもの。時代劇で大名行列に向かって村の農民が地べたに頭をこすりつける、あのような光景ではなかったかと思うのだ。いわゆる「お上」みたいなものだったんだろうと思う。

その士族階級の様子は今の宮古にも名残がある。姓ではなく、名前に「玄」や「恵」がつく人は士族の出らしい。最近、教えてもらった。宮古の七、八十代の人達はそのあたり、ものすごくよく知っている。彼らが子どもだった頃は、まだまだその名残が色濃かったのではないかと思います。名前自体が素性を明かすというのもすごい。名前が名刺代わりなのですね。そういえば、私もいまだに「上野の宮国か、それとも久松か?」と聞かれます。

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號宮古では、いまだ職業が世襲制的な香りを漂わせているのも関係ありそうだ。途中から島に参入した寄留商人の人達の名前も興味深い。名前が名刺代わりになるコミュニュティの限界はあの島の大きさまでかもしれない。宮古の情報網はインターネットを凌駕しています。ほんと悪い事はできません。

それからエドが遭難した1873年から数十年後には宮古も日本らしくなり、鹿児島から知識層が先生として島にやってきた。その子弟が後に初めて日本でアニメーションを制作する下川凹天(しもかわへこてん)であったりと、脈々と人の連なりがある。あの篠原鳳作(しのはらほうさく)もその流れです。篠原さんといえば、宮古の人にとっては遠藤周作なみに聞いた事あるくらい記憶に刷り込まれているフルネームだと思います。このあたりも調べてみたらおもしろいんだろうと思う。妄想はどこまでも広がります。

話を戻すと、そんな床に頭をつけている人達とその挨拶を当たり前に受ける光景を見たら、きっと私もエドと同じく「ひどく嫌な感じ」という気持ちになると思う。当時のドイツだってかなりの階級社会かもしれないけど、椅子に座る文化の人はたぶん頭を床につけたりはしないはず。私なんて当時の宮古にタイムスリップしたら、きっと傍若無人にふるまって、牢屋にでも入れられていたのではないでしょうか。エドは、おとなしく会釈したり、つったっていたりしたんでしょう。正しいぞ、エド。しかし、私は文句とか言いそうで怖いです。タイムスリップしないことを祈ります。えぇ、今のところ誰もできませんが。

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號言いたい事は絶対に言いたい、という私の性格はもともとの性質もあるけれど、育った背景が多分に影響していると思う。宮古はこのあたりから怒濤のように、各世代がまったく違う価値観やバックグラウンドを持つ。
意識の上でも生活でも、様式が、(1)プリミティブでアミニズム的⇒(2)琉球的⇒(3)日本的⇒(4)アメリカ⇒(5)チャンプルー的という流れではないかと思う。計算から行くとエドの時代はまだまだ(1)プリミティブ世代で、私は(5)代目のチャンプルー世代。

勿論、のりしろ部分はあるのだけど、これだけ家族の系譜にすら異文化があるのに意思疎通や言葉はシンプルでなくては通じない。なーんだ、宮古の人のあの率直さはこういう背景があるんだ・・・一人納得。この考察があたっているかどうかは、とりあえず横においといて。

私の4代前、曾祖父母はちょうどこの頃に生まれた。日本人とも琉球人ともつかない、宮古人として国の意識を持たず生活をしていた大人に育てられた。それは曾祖父母たちに大きく影響があったのではないかと思う。私はそれが良く言えば「プリミティブな人間的なおおらかさ」につながったと考えています。それは年齢を重ねてにじみ出てくるものではないかと。そして、その根拠は、岡本太郎さんが撮った1960年代の宮古の写真に写っている老人たちの柔和な表情だ。

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號「沖縄文化論~忘れられた日本」という書籍に宮古の港の様子が二枚おさめられている。中高年の男性は軒並みワイシャツで蝶ネクタイの人までいるが、老女たちは上布だろうか黒目の着物をきており、初冬と思われる風景に笑顔でたたずんでいた。

その写真のなかで洋服を着ている祖父母世代はバリバリ日本人として戦争に参加し、親世代は占領下で子ども時代、青春時代を過ごした。日本返還後に物心ついた私たちはまたまた別の価値観をもってしまった。生活や祭事には中国、琉球様式があり、物質生活はアメリカ文化に影響され、教育は日本語、というある意味、最後のチャンプルー文化の末裔かもしれない。
今のようにネットはないし、ある意味宮古はまだまだ閉ざされた世界でもあった。私にとってテレビの中の「大草原の小さな家」や「NHK大河ドラマ」、はたまた「トレンディドラマ」など、どちらも等距離で異国だったかも。それは私が当時の宮古にタイムスリップしたら、同じように等距離で異国に感じるのだろうか。気になるところです。

その頃は、きっと士族に目を付けられたら、税金とか重くなって生きるのも大変だったにちがいない。明らかに棲み分けができていたのは、当時のエドの日記からよくわかる。そしてこんな情報も。「当時の税金である人頭税は、その名の通り個人課税。しかし、 年齢性別で税率が変化するけど、納付は村(集落)単位だったはずなので、村の結束力が増して、今のオラが村が一番に繋がっているのでないか」と、あんちかんちーの編集さんに教えていただきました。なるほど、なるほど、それは知りませんでした。書いている私も勉強になります。エドはそのあたりまで見えていたかどうかははっきりしませんが、その階級の様子が判るような文章を書いている。

砂浜にはゴザが広げられており、日本式の民族衣装を着た親切な迎えの人物が我々に座るように勧めた。(同書)

宮国優子の「思えば宮古」 第拾弐號出入りの際、人は床まで深くお辞儀をするが、挨拶を返すのは同位の人のみであり、より高い階層や年上の人はお辞儀をされても返さず、場合によって自分へ挨拶したりすることを要求する。(同書)

などなど、随所に書かれてある。
でも、とにかくその日、海から砂浜へ、そして宿泊所へと流れ流れたエドたちの一行は、どこへいってもお茶と黍でもてなされている。島の人が「手厚い」とか「同情を示した」とか、安堵の言葉が並べられている。良かったね、エド。と、思わずにいられません。

この日の日記は本当に非常に長く、服装や顔つき、家の様子や食べ物まで事細かに記されてある。絵にしたらわかりやすいだろうなぁという気持ちと、私の下手な絵を披露しなければいけないのだろうか、という気持ちがせめぎあっております。次回も乞うご期待。それまで世界の顔のパターンを調べなきゃ!。にわか歴女と化していますが、それではまた~。ごきげんよう!。

※     ※     ※

【解説】
クーリー:「苦力」(Coolie)。奴隷制度が廃止された後の19世紀から20世紀初頭にかけ、ヨーロッパ諸国が労働力として低賃金で雇い入れた、貧困層の中・印系アジア人の単純労働者。

名前の「玄」や「恵」:玄が付く名前は忠導氏系統(仲宗根豊見親)、恵が付く名前は白川氏系統(与那覇勢頭豊見親)など、宮古にいくつかある有力な士族の末裔の証。

【参考書籍】
「ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」
財団法人博愛国際交流センター 編集・発行 平成7年初版
※残念ながら入手困難な稀覯本ですが、図書館などで読むことが出来ます。

「新版 沖縄文化論-忘れられた日本」(中公叢書)
著作:岡本太郎 発刊:中央公論新社(2002年初版)

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Posted by あんちーかんちー編集室 at 09:00│Comments(0)思えば宮古
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